Sex Slaves

画像 

1_1


1_2


2013/7/22 

 

米軍 ”慰安婦とは売春婦だった” 米国立公文書館が本物と証明、「韓国人は嘘つきだ!」 

◆アメリカ戦時情報局 アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属 APO689 報告書 
尋問期間:1944年8月20日~9月10日 報告年月日 1944年10月1日 
この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。 

「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「追軍売春婦」にほかならない。 
A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the 
Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. 

1_3


1_4


1_5


1_6


1_7


1_8


1_9


1_10








慰安婦(いあんふ、위안부[1]、Comfort Women)とは、日中戦争、太平洋戦争、朝鮮戦争[2][3][4][5]、ベトナム戦争[6]及び韓米軍事合同訓練[1]並びにアメリカ軍[7][8][9][10][1]、連合国軍[11]及び国連軍[8]の駐留時などに、当時の戦地、訓練地、駐留アメリカ軍基地周辺の基地村[1][12]などに設置された慰安所と呼ばれた施設で日本軍、韓国軍[2][3][10][1]、アメリカ軍[8][10][1]及び国連軍[8]の軍人・軍属に対して、売春業を行っていたまたは行っている女性の総称[13][14]。なお、従軍慰安婦(じゅうぐんいあんふ)については「従軍慰安婦」という呼称を参照。
目次 [非表示]
1 概念・呼称
1.1 公娼制と慰安婦
1.2 軍用売春宿(military brothels)
1.3 日本における呼称
1.3.1 「従軍慰安婦」という呼称
1.3.2 日本における戦前の呼称
1.3.3 事典の記載
1.4 韓国における呼称
1.4.1 挺身隊と慰安婦
1.4.2 韓国軍・国連軍慰安婦の呼称
1.5 英語圏での呼称
1.5.1 Sex Slaves(セックススレイヴ、性奴隷)という呼称
1.6 戦時性暴力(強姦)と慰安婦
2 公娼制と慰安婦・慰安所
2.1 公娼制(管理売春)
2.2 近代公娼制の確立
2.3 娼業規制に関する国際条約
2.4 植民地公娼制
2.5 20世紀世界大戦の戦時性暴力と戦地性政策
2.5.1 第一次世界大戦時の性暴力と性政策
2.5.2 第二次世界大戦当時の戦地性政策の三類型
2.5.3 ソ連軍・朝鮮保安隊による戦時性暴力と慰安婦
2.6 戦後
2.7 現代の慰安婦
3 各国の慰安婦
3.1 インド駐留イギリス軍慰安婦
3.2 ドイツ軍慰安婦
3.3 フランス軍慰安婦
3.4 米軍慰安婦
3.4.1 アメリカの公娼制と売春禁止運動
3.4.2 植民地フィリピンの米軍慰安婦・公娼制
3.4.3 ハワイ・中国・占領地での米軍慰安婦
3.4.4 占領期日本での米軍慰安婦
4 日本軍慰安婦
4.1 日本と日本統治下朝鮮における近代公娼制
4.2 第一次世界大戦〜日中戦争
4.3 売春斡旋業者の取り締まり (1937-1938)
4.4 太平洋戦争
5 朝鮮・韓国における公娼制と慰安婦
5.1 朝鮮の公娼制
5.1.1 妓生制度
5.1.2 日本の遊郭業の進出から近代公娼制の確立まで
5.2 大韓民国軍慰安婦
6 慰安婦問題
6.1 吉田清治の証言と活動
6.2 朝日新聞の報道・慰安婦訴訟
6.3 宮沢首相による謝罪から「河野談話」まで
6.4 吉田清治による証言否定
6.5 第2次橋本内閣での閣議決定
6.6 アジア女性基金と韓国政府による受領拒否
6.7 国連人権委員会の報告書
6.7.1 クマラスワミ報告
6.7.2 マクドゥーガル報告書
6.8 米国での慰安婦訴訟
6.8.1 ヘイデン法
6.8.2 対日非難決議 (1999)
6.8.3 戦時強制労働の対日賠償請求運動
6.8.4 アメリカでの慰安婦訴訟
6.9 第一次安倍政権と米国下院決議
6.9.1 安倍発言
6.9.2 米国下院121号決議
6.9.3 韓国系・中国系住民によるロビー活動
6.10 日韓外交交渉と韓国行政裁判所による判決 (2009)
6.11 韓国外務省による再請求と韓国憲法裁判所判決 (2011)
6.12 韓国・アメリカにおける日本軍慰安婦記念碑設置運動
6.13 野田内閣での答弁
6.14 近年の動向
6.14.1 オランダ人慰安婦の強制連行に関する第二次安倍内閣閣議決定
7 慰安婦・慰安所の諸相
7.1 日本軍慰安婦の総数
7.1.1 実数
7.1.2 20万説
7.1.2.1 1969年、1970年の韓国での報道
7.1.2.2 ソウル新聞報道と千田夏光による「挺身隊20万、慰安婦7万」説
7.1.2.3 鄭鎮星による「8万〜20万」説
7.1.2.4 マクドゥーガル報告書と荒船清十郎発言
7.1.3 韓国における「数十万」説
7.1.4 アメリカ合衆国教科書での「30万」説
7.1.5 「50万」説」
7.2 韓国軍・アメリカ軍慰安婦
7.3 慰安婦の募集方法
7.4 現地への輸送
7.5 慰安所の管理・運営
7.5.1 日本国
7.5.2 韓国
7.6 慰安婦の生活状況
7.7 報酬・料金
7.8 兵士との関係
8 日本軍慰安婦問題の論点
8.1 韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言
8.1.1 「処女・少女の強制連行」言説
8.2 強制連行の有無
8.2.1 朝鮮における慰安婦の強制連行
8.2.2 インドネシア、フィリピンにおける慰安婦の強制連行
8.3 「公娼」か「性奴隷」か
8.3.1 「性奴隷」言説
8.3.2 「公娼」言説
8.3.3 妓生と公娼
8.4 元日本将兵の証言に関する問題点
8.4.1 千田夏光の著作における証言
8.4.1.1 関東軍特種演習・原善四郎証言の捏造
8.4.1.2 麻生徹男軍医に関する虚偽記載
8.4.2 吉田清治の証言
8.5 元慰安婦の証言に関する問題点
8.5.1 元慰安婦の証言の検証と真正性
8.5.2 安秉直による検証調査
8.5.3 非公開証言と日本外務省による「強制性」認定
8.5.4 クマラスワミ報告における北朝鮮人元慰安婦の証言
8.6 「慰安婦問題」の政治的な背景
8.6.1 韓国による政治的利用
8.6.2 日本の運動家による工作
8.6.3 日本からの償い金受給者に対する韓国運動団体による差別
8.7 朝日新聞の植村隆記事と「女子挺身隊」
8.8 韓国運動団体による補償金詐欺
8.9 日韓基本条約「無効」論
8.10 人権・人道に対する罪
8.11 国連報告書に関する問題点
8.11.1 クマラスワミ報告
8.11.2 マクドゥーガル報告書
9 「慰安婦」訴訟・関連訴訟
10 その他
11 年表
12 慰安婦を描いた作品
13 脚注
14 参考文献
15 関連項目
16 外部リンク
概念・呼称[編集]

公娼制と慰安婦[編集]
詳細は「公娼」および「#公娼制と慰安婦・慰安所」を参照
国家による管理売春を公娼制度といい、慰安婦・慰安所も公娼制の一種として研究されている[15][16][17]。
しかし、日本軍慰安婦については公娼制というよりも性奴隷制であるなどと主張されることがあり、慰安婦たちの置かれた生活条件や報酬体制、また強制連行の有無など、多岐にわたる論点をめぐって国際的な論争となっている(#日本軍慰安婦問題の論点ほか後述)。
軍用売春宿(military brothels)[編集]
詳細は「:en:Brothel#Military brothels」を参照
近現代史において主要各国の軍隊は公認の(Official)売春宿を指定あるいは設置し、公娼制を前提として活用したとされる。これを軍用売春宿と呼ぶことがある。日本軍が活用した軍用売春宿の呼称が「(陸・海)軍慰安所」である。フランスの場合軍用売春宿計画を「キャンディボックス(la boîte à bonbons)」などと婉曲表現した[18]。韓国で発生した国連軍・米軍のための軍用売春宿は「基地村(Camp Town 기지촌 Kijichon)」と呼ばれ、そこで働く女性は「洋公主(Western princess 양공주 Yanggongju)」「UN マダム(유엔마담 UN madam)」などと表現されていたが正式名称は慰安婦( Wianbu 위안부)であった[19]。
日本における呼称[編集]
「従軍慰安婦」という呼称[編集]
「従軍慰安婦」という言葉は戦時存在せず、1973年の千田夏光[20]の著書からきた造語と主張されることがあるが、それより以前の1971年8月23日号『週刊実話』の記事「"性戦"で"聖戦"のイケニエ、従軍慰安婦」で使用されている[21]。慰安婦問題が社会問題となってこの呼称は浸透した。
“従軍”という言葉を巡り、藤岡信勝は「『従軍』という言葉は、軍属という正式な身分を示す言葉であり、軍から給与を支給されていた」から、従軍看護婦、従軍記者、従軍僧などと異なる慰安婦に使う用語ではないと主張した[22]。しかし辞典大辞林では「従軍」とは「軍隊につき従ってともに戦地へ行くこと。」と定義されており[23]、千田夏光も「従軍とは軍隊に従って戦地に行くことであり、それ以上の意味もそれ以下の意味もない」と主張した[24]。千田は従軍看護婦の主力は「日本赤十字社救護看護婦」で、給与は日本赤十字社から出されていたことや、戦後の軍人恩給で一部の婦長を除き軍属ではないとして恩給対象から外されたことなども挙げている。
他方、慰安婦問題を追求する女性団体のなかにも「従軍という言葉は自発的なニュアンスを感じさせる」[25]、韓国挺身隊問題対策協議会「従軍慰安婦という言葉は正しい表現ではない」とし日本軍慰安婦と呼んでいるケースもある[26]。
当時の資料では、1940年5月7日の閣議決定に基づく「外事警察執行要覧」では、「特殊婦女」(慰安婦)は軍属ではなく、民間人として扱うことと定められている[27]。
1968年4月26日、衆議院の社会労働委員会において厚生省の実本博次援護局長は、慰安婦について「一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。」と答えている[28]
「いわゆる従軍慰安婦」という言い方も日本外務省やアジア女性基金、一部メディアで使用される。
日本における戦前の呼称[編集]
「遊女」、「花魁」、および「からゆきさん」を参照
日本では古くより遊郭での娼婦を遊女、女郎、花魁などと呼び、19世紀後半の日本では海外への出稼ぎ娼婦をからゆきさんまた娘子軍とも呼んだ。芸娼妓解放令(1872年)や、朝鮮での「娼妓類似営業の取締」(1881年[29])、娼妓取締規則(1900年)等では「芸娼妓・娼妓」と呼んだ。1909年、清での日本租借地関東州において日本人女性に対しては娼妓家業を認めず、芸妓・酌婦は黙認したため、関東州・満州では「酌婦[30]」と呼ばれた[31]。また1932年、1938年の上海でも「酌婦」が使われている[32]。
1932年4月1日の上海派遣軍の軍娯楽場取締規則では、慰安所は「軍娯楽場」、従業員は「接客婦」と表記されている[32]。 1937年には「稼業婦女[30][33]」、軍慰安所従業婦等募集に関する件では「従業婦」ともよばれた。売春を「醜業」と呼ぶ事もあり、1904年の国際条約醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定では「醜業」と表され[34]、1938年の支那渡航婦女の取扱に関する件では「醜業婦(醜業を目的とする婦女)」と表記された。1939年1月17日の第11軍軍医部長会議指示では「特殊慰安婦」、1939年11月14日の在中支森川部隊特殊慰安業務に関する規定で「慰安婦」が使用された[32]。秦郁彦によれば「慰安婦」という語そのものは逐次広まったものであり、一方で公式用語として定着したわけではなかったと指摘している[32]。
公娼制下の日本では「芸妓、酌婦、娼妓」の三つに区分したり、1940年頃の中国に渡航する慰安所関係の公文書でも「芸娼妓、女給仲居、女中、酌婦、芸妓」と一括されるなどしており、「慰安婦」の範囲基準は明らかではないが、慰安所に入ったあとに慰安婦と呼びかえられたともいわれる[32]。俗語ではそのほか、戦地の軍人は慰安婦を「ピー」、慰安所を「ピー屋」(prostitute 娼婦の頭文字[10])とも呼んだ[35][36]。
終戦後のソ連軍による強姦や暴行に対して、娘を守るために自ら「慰安婦人会[37]」、また「戦勝国民化」した朝鮮人に対する強姦や暴行に対しても同様に「慰安隊」が海州市で結成されたという証言もある[38]。
事典の記載[編集]
1955年の広辞苑初版では慰安婦を「戦地の部隊に随行、将兵を慰安した女」と定義している。1970年代以降になって「従軍慰安婦」問題が社会問題となり[39]、日韓の外交問題にまで発展すると、広辞苑4版(1991年)以後で「従軍慰安婦」項目が登場し「日中戦争・太平洋戦争期、日本軍将兵の性的慰安のために従軍させられた女性」と記載された。以降、版によって定義が推移し[40]、広辞苑第5版(1998年) では「日中戦争、太平洋戦争期、日本軍によって将兵の性の対象となる事を強いられた女性。多くは強制連行された朝鮮人女性。」と記載され、この記載に対して谷沢永一と渡部昇一が史実と異なる記述であり、イデオロギーにもとづく記述は辞書に値しないと批判した[41]。その後、第6版(2008年)では後半部は「植民地・占領地出身の女性も多く含まれていた」と改訂された。
世界大百科事典第2版(2006年)では「従軍慰安婦」を「十五年戦争期に,戦地・占領地で日本軍の監督下に置かれ,軍人・軍属の性交の相手をさせられた女性。」「その本質は軍性奴隷である」と定義している[42]。
大辞林第三版(2006年)では慰安婦を「戦地で日本軍将兵の性の相手となることを強要された女性たち。」と定義[43]。大辞泉・2006年では「主に戦地で将兵の性の相手をさせられた女性。」と定義された。
韓国における呼称[編集]
挺身隊と慰安婦[編集]
「#韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言」を参照
韓国では、国連軍相手の慰安婦が韓国警察や韓国公務員により「挺身隊(정신대)」とも呼ばれていたこともあり[1]、「女子挺身隊」との混同から呼ばれてきた「挺身隊」という呼称が一般に定着しており[44][45]、韓国挺身隊問題対策協議会は団体名にも使用している。
当時の日本語での「挺身隊」は工場などでの勤労労働に従事する女性を、慰安婦は戦地等での公娼・売春婦を意味し、それぞれ異なるものである[46]が、すでに戦中当時にも朝鮮では両者が混同されていた。太平洋戦争末期の1944年8月、日本内地において12歳から40歳までの未婚女子の日本人女性を工場などへ動員する女子挺身勤労令が出された[47]が、朝鮮半島の女子については徴用令も女子挺身勤労令も発令されなかった[48]。しかし、朝鮮では挺身隊と慰安婦が混同され、「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」との流言(デマ)が流布し、娘に偽装結婚させたり学校を中退させる家族が続出した[49]。
また挺身隊としての動員は「処女供出」とも呼ばれた。尹明淑は朝鮮語の「処女」とは未婚女性や若い女性を指す総称としている[50]。
韓国軍・国連軍慰安婦の呼称[編集]


国連軍を相手とする慰安婦の登録が1961年9月13日に実施されたことを報ずる東亜日報1961年9月14日付
「韓国軍慰安婦」を参照
第二次世界大戦後、朝鮮半島は日本統治期より連合軍軍政期に移り、旧日本軍の基地周辺の公娼地区も引き継がれ、娼婦は「洋パン(ヤン・セクシ)」[10]「洋公主(ko:양공주、ヤンコンジュ、ヤンカルボ)」などと呼ばれた[44][10][11]。
朝鮮戦争を背景に、1948年に建国された大韓民国は公式に慰安婦を募集し、正式名称として「特殊慰安隊」と呼び[2][3][11][5]、また「第5種補給品」とも呼んだ[44][2][10]。韓国陸軍本部編『後方戦史(人事編)』(1956年)では「固定式慰安所-特殊慰安隊」とある。
朝鮮戦争後は、「美軍(アメリカ軍)慰安婦(美軍慰安婦)」[8]「国連軍相対慰安婦(UN軍相對慰安婦)」[8]「挺身隊(정신대)・国連挺身隊」[1]とも呼ばれ、「ドルを稼ぐ妖精」「民間外交官」とも[44]。
1966年の大韓民国大法院の判決文では「慰安婦」を「一般的に日常用語において、売春行為をしている女性」と定義された[51]。
また毛布一枚で米軍基地について回るという意味で「毛布部隊」とも呼ぶ[44]。ベトナム戦争時は「ディズニーランド」とも呼ばれた[6]。
これら韓国における慰安婦の英語表記はcomfort womanであり、日本語の慰安婦の英訳と同一である[44]。韓国軍・在韓米軍慰安婦は一般にKorean Military Comfort Womenと表記される[52][44]。
ほかに近年のフィリピン人など外国人娼婦に対してジューシーガール(juicy girls)、バーガール(bar girls)、ホステス(hostesses)、エンターテナー(entertainer)という言い方もされる[7][53]。
英語圏での呼称[編集]
1944年の米国戦争情報局心理作戦班報告では日本語の「慰安婦」とは日本軍に特有の語で、軍人のために軍に所属させられた売春婦もしくは「職業的野営随行者」(professional camp follower) と記載されている。
英語圏では、「慰安婦」を直訳したComfort Womanという呼称[54]が用いられている場合が一般的である。
しかし、慰安婦制度を人権問題や戦争責任問題などとして告発する立場などにおいては、性奴隷の訳語に当たるSex Slaveという表現を使う場合もある(『ジャパンタイムズ』など)。2000年の民衆法廷(模擬法廷)女性国際戦犯法廷では日本軍性奴隷と表現された。ニューヨーク・タイムズは日本軍相手の女性達を性奴隷もしくは慰安婦と呼称しているが[55]、アメリカ軍相手の女性達については日本軍の慰安婦とは異なるとして売春婦と呼称している[56]。一方、アメリカ軍や韓国軍慰安婦の当時の韓国政府による公式呼称は慰安婦である[8][10]。
吉見義明の著書の英訳はComfort Women:Sexual Slavery in the Japanese Military During the World War IIである[57]。
Sex Slaves(セックススレイヴ、性奴隷)という呼称[編集]
日本軍慰安婦については「慰安婦」よりも「性奴隷」と表現する方が適切であると民間人・民間団体が1990年代より主唱しはじめ、しばしば海外政府・国連関係者により言及されることがある。
1992年2月25日、NGO国際教育開発(IED)代表で弁護士の戸塚悦郎は国連人権委員会で日本軍慰安婦問題を取り扱うように要請し、その際、「日本帝国主義の性奴隷(sex slaves)と規定した」と自分が「性奴隷」という言葉を発案したと回想している[58][59][60]。当初、国連では「性奴隷」という呼称は受入れられなかったが、戸塚は人権委員会の下位にある差別防止少数者保護小委員会(人権小委員会)や、人権小委員会で活動する現代奴隷制作業部会に働きかけた[61]。日本弁護士連合会(日弁連)会長(当時)で「慰安婦問題の立法解決を求める会」(1996年12月設立)[62][63]の土屋公献も、1992年から日弁連が国連において慰安婦補償を要求するなかで「性的奴隷(Sex SlavesまたはSexual Slavery)」 として扱うように働きかけ[64]、その結果、1993年6月に世界人権会議の「ウィーン宣言及び行動計画」において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用されたとしている[64]。日弁連会長鬼追明夫は「軍事的性的奴隷」とも表現している[65]。
1992年に、当時日本軍に暴行されたと名乗り出た[66]オランダ人女性ジャン・ラフ・オハーンは「慰安婦」という言葉は侮蔑であり、自身を「戦時強姦の被害者であり、日本帝国軍の奴隷として強制徴集(conscripted)された」と訴えた[67]。
1993年、国連人権委員会の差別防止・少数者保護小委員会「武力紛争下の強姦、性奴隷制および類似慣行に関する特別報告者」の報告者であったリンダ・チャベスは準備文書で「性奴隷制度である」と明記した[68]。ただし、リンダ・チャベスは報告書をまとめることなく1997年に辞任した[69]。
1996年に国連人権委に報告されたクマラスワミ報告では日本軍慰安婦制度(公娼制度[70][71])を「Military Sexual Slavery(軍性奴隷制[72])」また「性奴隷制」と明記された[73][74]。西岡力はクマラスワミ報告が吉田清治やジョージ・ヒックスの著作(ヒックスは吉田証言や当時のうわさ話を歴史的な真実として記載している)に依拠していること、そのため、慰安婦を「貧困を原因とする人身売買の被害者」としてでなく日本の国家「権力による強制連行の犠牲者だと決めつけている」と批判している[75]。
1997年には日本で証言集『私は「慰安婦」ではない 日本の侵略と性奴隷』が出版された[76][67]。
1998年のマクドゥーガル報告書でも「性奴隷制」と表現された。1999年に刊行された戸塚悦郎の本[77]の韓国語訳のタイトルは『私は慰安婦ではない 私は性奴隷だった』であった[67]。
戦時性暴力(強姦)と慰安婦[編集]
マクドゥーガル報告書では日本軍慰安所をレイプ・センター (rape centres) とも表現した。秦郁彦はこの「レイプ・センター」とは、撫順の日本兵戦犯が認罪の過程で「慰安所」を「強姦所」と書き直すように戦犯収容所から強要された表現の英訳ではないかとしている[78]。
このほか、民主党、社民党らは日本人慰安婦を除外したうえで戦時性的強制被害者[79]という名称を法案名でも使用している[80]。
国際人権活動日本委員会の前田朗はジュネーブで開かれた国連人権促進保護小委員会において20万人もののコリア、中国の女性が日本軍から性労働を強いられたうえに拷問や栄養不良などで殺害されたり、爆撃下のたこつぼでレイプされた女性もいたとして大量虐殺的強姦という概念を提唱した[81]。
公娼制と慰安婦・慰安所[編集]

公娼制(管理売春)[編集]
詳細は「公娼」を参照
公娼制度の歴史は古く、古代ギリシアのソロンは公共娼家を設立した[82][15]。アテナイの公娼は下級売春婦であったともいう[83]。ローマ帝国でも公娼と私娼があり、売買奴隷、捕虜、さらわれた女性や捨て子などが娼婦となり[83]、娼婦登録制や課税等の統制政策[82]や、仲介業者や娼家経営者を規制する法令も出された[82]。ジョージ・ヒックスは、ローマ帝国は捕虜女性を性奴隷とし「日本軍と同様の慰安制度」を採用していたと主張している[84]。
古代中国の周の荘王も公娼制を創設しており[15]、捕虜女性が性奴隷になるのは古代中国でも同様であった[85]。中国でも被征服者が公娼となる場合が多く、唐では征服された国の女性が妓女として皇帝や軍人・官僚を喜ばせた。また金王朝に破れた北宋の女性は強制連行され、洗衣院に入れられ性奴隷とされた。明の初期には前代の元朝の支配層であったモンゴル人女性が後宮に入っている[86]。
中世のヨーロッパでは売春は批判されたが、公娼制度は保護され、徴税の対象となった[83]。娼家は登録制で、フランス、イタリア、イギリス、ドイツでは大規模な娼家街があった[82]。アヴィニョンの国営娼家の設置目的は街頭娼婦の追放であった[87]。十字軍遠征では「売春婦部隊[83]」・「従軍売春婦」[82]が従軍した。宗教改革以降、売春は罪悪視され、処罰されるようになった[82]が、16世紀にはスペイン軍がオランダ侵攻した際に売春婦が1200人随行したとされ、またドイツで1598年に刊行された軍事教科書では随行売春婦の役割について論じられている[88]。
近代公娼制の確立[編集]
詳細は「公娼」を参照
18世紀のヨーロッパでは売春が盛んになり、私生児も増加したため[89]、1724年の『公営売春宿擁護論』では公娼制による解決が主張された[90]のち産業革命期以降のヨーロッパでは公娼政策がとられた[82]。しかし非登録の私娼も多く、1843年頃はロンドンに9万人、パリに3万人、ベルリンに1万人[82]、1860年のロンドンでは30万人の娼婦がいたとされる[83]。
性病対策としての近代公娼制
近代公娼制は、性病対策と軍隊慰安によって設置され、フランスで確立し、その後ヨーロッパ、アメリカ合衆国や日本にも導入された[16]。ナポレオン軍陸軍大臣ラザール・カルノーは娘子軍と男性兵士における風紀の退廃と性病の蔓延について悩んだとされる[15]。1802年、フランスで警察による公娼登録が開始された[91]。1828年にはフランス風紀局衛生課が設置され、検診で性病の見つかった娼婦は病院に送られ、治療後、売春業の許可がおりるという体制になった[92]。18世紀末に梅毒が流行し、ナポレオン戦争による大規模の人の移動のため性病がヨーロッパ中にひろがったが、同時に医学研究もすすんだ[93]。プロシアでは一旦廃止されたあと1851年に性病予防のために公娼制度が軍によって再開され[91]、風紀警察が特別に設置された[94]。イギリスはクリミア戦争の際の性病問題に対してイギリス軍の提案[95]で1864年から1869年にかけての伝染病(性病)法によって公娼制度が導入され[91]、警察が娼婦とみなした女性を逮捕し、検診を強制できるようになり、性病に感染していない場合は娼婦(公娼)として正式に登録された[95]。1873年、ウィーン国際医療会議で売春統制を各国共通にするための国際法が提案された[91]。
また、日本の公娼制は年季奉公の一形態として発展し、徳川幕府に認可された遊郭が形成されていた。明治維新後の1873年(明治6年)に公娼取締規則、1900年には娼妓取締規則が制定され、娼妓の年齢を18歳以上とし(従来は15~16歳),住居や外出に制限を加えた。翌年の1901年に軍医の菊池蘇太郎も、公娼制度の目的は性病(花柳病)予防と風俗頽壊防止を目的としていたと記している[96]。
娼業規制に関する国際条約[編集]
詳細は「公娼」を参照
廃娼運動は国際条約に結実し、1904年5月に欧州12カ国で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が、ついで1910年5月に13カ国間で「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締約された。国際連盟では規約23条でこれら取決めの一般監視を行うとしたため、1921年9月の第二回国際連盟総会において婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約として再締約された(23カ国)[97]。このさいに日本も条約に加盟したが、すでに娼妓取締規則があり年齢に関する条項(21歳未満を禁止)については留保した。
植民地公娼制[編集]
詳細は「公娼」を参照
1870年代になってジョセフィン・バトラー[98]らの売春婦救済運動(廃娼運動[82])が盛んになり、19世紀末のイギリスやアメリカ合衆国では本国では公娼制が廃止される[82]。しかし、植民地においては存在し続けた(秦郁彦[99]、ヒックス[100]、藤目ゆき[101])。イギリスは1921年の婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約に調印しながらも植民地での公娼制は維持された[101]。アメリカ合衆国もフィリピンなどでは、米軍基地目当ての売春宿や性病検診と登録制は1990年代になっても廃止されなかった[101]。秦郁彦も、第二次世界大戦当時の英米では兵士の慰安婦は公娼から私娼中心になっていたが、戦地の現地人娼婦以外では女性兵士や看護婦が代替したと指摘している[99]。
植民地の公娼制について藤目ゆきは「植民地においてこそ、帝国主義軍隊の維持がより重大であり、だからこそ公娼制の温存は植民地において本国より重視された」と指摘したうえで、娼家の供給は「貧しい親に売られるのも、だまされて売春を強要されるのも、前借金に縛られ逃げられない状態に置かれたのも、日本人の娼婦に限ったことではない」と指摘している[102]。
20世紀世界大戦の戦時性暴力と戦地性政策[編集]


慰安所の前にたたずむ軍装姿の男性と和服女性


ドイツ兵と戯れるフランス・ブレストの売春婦


連合軍によって制圧されたパリではドイツ人と親密であった女性たちは頭を刈られ服を引き裂かれて引き回された
強姦は戦時に限らず平時でも発生する[103][104]が、戦争におけるレイプなどの性暴力については1990年代以降、「戦時性暴力」として研究されている[105][106]。戦争において性暴力は、勝者への褒美、敗者への懲罰、また単なる快楽として行使されてきた[107]。
第一次世界大戦時の性暴力と性政策[編集]
第一次世界大戦開戦直後にはドイツ兵によるフランス人女性への強姦が発生し、妊娠した女性の堕胎を認めるべきか論争が起こった[108]。また、第一次世界大戦敗戦後のドイツではライン河左岸を占領した連合軍兵士のなかにモロッコ、チュニジア、アルジェリア、マダガスカル、セネガルなどの植民地兵がおり、1920年代にはアフリカ系兵士によるドイツ人女性の強姦が問題とされた[109]。
また、第一次世界大戦の際にはフェミニストのジェーン・トラートンはエジプトのニュージーランド軍を看護するための従軍女性ボランティア団体を組織し、病気に悩む兵士に対して「女が必要なら、病気のないきれいな女を与えなさい」と語っている[110]。
第一次世界大戦時の米軍ではアメリカン・プランが推進された。アメリカン・プランとは、米軍の兵営5マイル以内では、どんな女性でも逮捕でき、その女性の市民権を停止することができる軍隊保護法であった[111][112]。市民権を奪われたあと女性に性病感染が発見されると、強制収容され、終戦までに1万5520人の女性が逮捕収監された[112]。この保護法は性病から兵士を保護する目的であり、逮捕収監は合法であったため、兵士で処罰されたものはいない[112]。
第二次世界大戦当時の戦地性政策の三類型[編集]
秦郁彦によれば、第二次世界大戦当時の戦地での性政策には大別して自由恋愛型(私娼中心。イギリス軍、米軍)、慰安所型(日本、ドイツ、フランス[113])、レイプ型(ソ連、朝鮮[114])の3つの類型があった[115]。
自由恋愛型とは英米軍が該当し、私娼中心で公娼制度を公認しないもので、その理由は世論とくに女性からの批判によって公娼制を公認できなかったためとされる[115]。その代わり、現地の娼婦の利用を黙認したが、性病が蔓延したともいわれる[116]。(バトラーらのフェミニズムによる批判や廃娼運動については前述#近代公娼制を参照)。植民地においては慰安所が存在し、また英米軍が占領後に日本軍慰安所を居抜きで使用した場合もある[117]。アメリカ軍もフィリピンなどの植民地慰安所をのぞくと慰安所を設置しなかったが、ノルマンディーに上陸したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性行を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためル・アーヴルでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している[118][119]。
ドイツ軍は国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し500箇所あったといわれ、ドイツと同様の制度を導入した日本軍慰安所は400箇所あったとされる[120]。フランス軍、インド駐留イギリス軍、イタリア軍にも慰安所があったが、慰安婦を現地で募集する場合とそうでない場合とがある(詳細は下記節で述べる)。
日本軍慰安所設置にあたっては性病対策のほか強姦対策もあった[121]が、強姦罪は跡を絶たなかったともいわれる[122][123][124]。南京事件では日本軍による虐殺とともに強姦が発生したともされるが、研究者間で確定しておらず論争になっている(南京大虐殺論争を参照)。早尾乕雄『戦場心理の研究』[125][126]によれば1938年の上海では強姦や輪姦が頻発し、南京では「皇軍に強姦されたら、幸運に思え」と怒鳴った隊長[誰?]がいたと報告している[127][128]。日本の内地においては1941年の灯火管制下の治安維持のために戦時犯罪処罰ノ特例ニ関スル法律を制定し、性犯罪の厳罰化が図られた[129]。
ソ連軍・朝鮮保安隊による戦時性暴力と慰安婦[編集]
ソ連(ロシア)では慰安所は設置されていないがレイプが黙認された[130]。スターリンは敵国の女性を戦利品とする「戦地妻」を容認し、「わが軍兵士のふるまいは絶対に正しい」と兵士を鼓舞した[131]。ソ連軍は占領したドイツで集団強姦を広範囲に行い[132][103]、レイプの被害者数はベルリンでは9万5000〜13万、東プロイセン等では140万人、ドイツ全域で200万人にのぼった[133]。ソ連軍は満州や朝鮮半島では日本人女性の強姦行為を各地で繰り返し[114]、ソ連軍によって監禁された約170名の日本女性が強姦を受け、23人が集団自決した敦化事件も起きている。また大古洞開拓団(三江省通河県)ではソ連軍による慰安婦提供の要請を受けて、2名の志願慰安婦を提供した事例もある[134]。満州開拓団にソ連軍が進駐した際には兵士の妻でなく単身女性が慰安婦として提供された黒川開拓団や郡上村開拓団の例がある[135]。
朝鮮保安隊による引揚女性への性暴力
また、朝鮮人(朝鮮保安隊)も朝鮮半島の吉州郡や端川市などでソ連兵とともに非戦闘員の女性引揚者への集団強姦行為をおこない、強姦後に虐殺するケースもあった[114]。強姦により妊娠した引揚者の女性を治療した二日市保養所の1946年(昭和21年)の記録では、相手の男性は朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人であり、場所は朝鮮半島が38件と最も多く、満州4件、北支3件であった[136]。1947年に閉鎖されるまで二日市保養所では4500件の中絶手術が行われた[137]。ヨーコ・カワシマ・ワトキンズの自伝『竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記』でもソ連軍や朝鮮共産党軍に日本の市民が朝鮮半島において暴行・強姦の被害にあったことが記録されている[138]。
このほか、中国共産党軍による通化事件が起きたほか、引揚列車に乗り込んできた中国共産党軍によって拉致された女性もいた[139]。
戦後[編集]


横須賀市安浦に設置した慰安所に群がる連合国軍将兵
日本政府は進駐軍向けの特殊慰安施設協会を1945年8月22日に設置したが、8月30日に上陸した進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した[140][141]。8月28日、9月2日開業予定の小町園慰安所にはマシンガンで武装したアメリカ軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦した[142]。横浜では、100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦した[142]。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された[140]。9月5日には神奈川県の女子高校が休校した[140][143]。9月19日にGHQがプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は新聞で報道されなくなった[140]。武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された[140][144]。これらのアメリカ軍による集団強姦事件はダグラス・マッカーサー元帥やロバート・アイケルバーガー将軍も把握しており[145]、アメリカ軍は強姦から女性を守ろうと設立された自警団に対しては戦闘車両で鎮圧し自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁した[145]。進駐軍相手の日本人娼婦(街娼)は「パンパン」などと呼ばれていた。
朝鮮半島においては、連合軍による軍政が敷かれ慰安所、慰安婦ともにアメリカ軍に引き継がれた[7][146]。アメリカの支援を受けて建国された韓国では、朝鮮戦争以降、韓国政府が韓国軍・米軍向けの「特殊慰安隊」を設立した[8][2][147](詳細は本項で述べる)。このように軍人に対する売春に従事した婦女は日本に限らず、米国、韓国、ドイツを含む他国にも存在している[148]。米人女性ジャーナリスト、スーザン・ブラウンミラーは自著”Against Our Will”(1975年)で、ベトナム戦争中、米軍がベトナム人女性がいる軍公認の慰安所を利用していたことについて詳細なルポを書いている。2002年に韓国の研究者金貴玉が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったとし、韓国軍は1948年の政府の公娼廃止令に背いて、約3年間不法に公娼を設置・運営していたと発表して以降[149]、韓国軍慰安婦の実態調査も開始されたが公文書の閲覧が制限されてもいる(#韓国軍慰安婦参照)。
1960年代の韓国ではアメリカ軍相手の売春が国家を挙げて奨励され、国民総生産の25%を占めていた[150]。このようなことから、女性たちは「ドルを稼ぐ愛国者」、「真の愛国者」、「ドルを稼ぐ妖精」と韓国政府から称賛された[56][12][151]。その後、謝罪と補償を求める女性たちもいるが[56][51]、韓国最高裁は売春である不法行為に基づく損害賠償請求であるとして棄却している[51]。
現代の慰安婦[編集]
「在韓米軍慰安婦問題」も参照
韓国では旧日本軍慰安婦問題だけでなく、在韓米軍を相手にした慰安婦(売春婦)の問題も、在韓米軍慰安婦問題として社会問題にもなっている。崔吉城は論文「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」において、朝鮮戦争時には敵国ではない韓国において国連軍がソウル市北部の村で日中、シェパードを連れて女性を捜索し、発見後に強姦に及んだり、またジープにのって民家を訪れ女性を強制連行して性暴力をはたらいたことや、韓国人兵士が韓国人女性に性暴力や性拷問をはたらいたことを紹介している[152]。性暴力をうけたのは女性だけでなく、10歳位の男子がフェラチオを強要され喉が破裂したこともあった[152]。1980年までに韓国における米軍相手の売春を生業としてきた女性は100万人を超えた[153][7][154]。1992年10月には、米兵のケネス・マークル(Kenneth Markle)が米軍クラブの従業員の尹今伊を殺害し、膣にコーラ瓶、肛門には傘が刺され全身に洗濯用洗剤がまかれたままの遺体で見つかるという尹今伊殺害事件が発生し、反米運動にまで発展し、翌1993年には駐韓米軍犯罪根絶運動本部が設置された[152][155]。
また近年、韓国でアメリカ軍を相手とするジューシーバーで働くフィリピン女性たちが人身売買の状況下に置かれている問題がある[156]。韓国では売春は違法行為であるがアメリカ軍相手の売春を行っているバーなどは当局の摘発対象外とされている[157]。アメリカ軍相手の売春を強要されているフィリピン女性たちは、フィリピンに進出している韓国企業によって韓国で歌手として働くためと称した募集に応じた女性たちである[158]。在韓米軍自身もこれらの女性たちは歌手、ダンサーになることを夢見て韓国に来たが売春を強要されていることを報じている[156]。フィリピン女性たちはヤンキー売春婦、コメで動くチビ茶色のファッキンマシーンなどの軽蔑的な呼称で呼ばれてきた[159]。1000人を超えるフィリピン女性、ロシア女性を米軍基地周辺のクラブで人身売買したとしてクラブ経営者が訴えられることもあったが韓国の裁判官は訴えを却下してきたが[160]、2002年にアメリカのフォックステレビが韓国に人身売買された女性たちが売春を強要されていることを報じると[160]、翌年からは監禁され売春を強要させられていた一部のフィリピン女性への賠償を命じる判決を出したり、フィリピン女性たちを監禁して売春を強制していた経営者に対しては執行猶予、社会奉仕の判決を下すケースも存在するようになった[161]。2000年以降、韓国の売春宿に監禁されている外国女性などが多数火事で焼死する事件が相次いでいる[7]。これらの事件の存在は現代の慰安婦と米軍の関係を研究する学者たちの共同論文『Modern-Day Comfort Women:The U.S. Military, Transnational Crime, and the Trafficking of Women』にて公にされている[7]。2009年にアメリカ軍の機関紙である星条旗新聞は、韓国でジュースをクウォーター制で売る女性たちは売り上げ次第で店主から売春を強要させられていることを明らかにしている[156]。これらの状況に対して、フィリピン大使館はフィリピン女性たちが売春を強制されているバーの監視リスト作成したり女性たちの裁判を支援する動きを見せている[162]。2010年にアメリカ国務省は韓国の米軍基地周辺のバーで働く女性達の状況について、現在進行中の人身売買であるとする報告を行っている[156]。2012年に在韓米軍はジューシーバーで高いドリンク代を支払うことは現代における奴隷制の一つである人身売買業を支援することであるとする動画をユーチューブに投稿した[163][156]。
各国の慰安婦[編集]

※日本軍慰安婦、韓国軍慰安婦については別節を参照(後述)。
インド駐留イギリス軍慰安婦[編集]
1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、利用料金は労働者の日当より高く、また女性の年齢は14〜18歳だった[164]。当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した[164]。主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから渡印した娼婦もいた[164]。売春婦登録簿は1888年まで記録されている[164]。
第二次世界大戦の時代にはイギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した[165]。1944年3月の米軍の日系2世のカール・ヨネダ軍曹のカルカッタでの目撃証言では、6尺の英兵が10歳のインド人少女に乗っている姿が丸見えで、「強姦」のようだったとして、またそうしたことが至るところで見られたという[165]。性病感染率の記録からは、ビルマ戦戦では6人に1人が性病に罹っていた[166]。また、日本軍の慰安所を居抜きで使用したともいわれる[165]。
イギリス軍の捕虜になった会田雄次は、英軍中尉がビルマ人慰安婦を何人も部屋に集めて、「全裸にしてながめたり、さすったり、ちょっとここでは書きにくいいろいろの動作をさせて」楽しんでいたという[167]。
ドイツ軍慰安婦[編集]
「:en:German military brothels in World War II」および「:en:German camp brothels in World War II」も参照
ドイツ軍は日本軍と非常に類似した国家管理型の慰安婦・慰安所制を導入し500箇所あった[120]。ドイツ政府は「人道に対する罪に時効はない」と宣言し、様々な戦後補償を行なっているが、当時のドイツ軍による管理売春・慰安所・慰安婦問題はそうした補償の対象とはされてこなかった[168]。しかし、日本軍慰安婦問題がきっかけとなり、検討されるようになった[169]。また秦郁彦が1992年に日本の雑誌『諸君!』[170]で紹介したフランツ・ザイトラー『売春・同性愛・自己毀損 ドイツ衛生指導の諸問題1939-1945』[171]はドイツでも知られていなかったため、当時来日していたドイツ人の運動家モニカ・ビンゲンはドイツに帰国してこの問題に取り組むと語った[172][173]。
ザイトラーの著作によれば、1939年9月9日、ドイツ政府は、軍人の健康を守るために、街娼を禁止し、売春宿 (Bordell) は警察の管理下におかれ、衛生上の監督をうけ、さらに1940年7月にはブラウヒッチュ陸軍総司令官は、性病予防のためにドイツ兵士のための売春宿を指定し、それ以外の売春宿の利用を禁止した[173]。入場料は2-3マルク、高級慰安所は5マルクだった[173]。なお、ソ連のスターリンは売春を禁止していたため、東方の占領地では売春宿を新設し、慰安婦はしばしば強制徴用されたといわれる[174]。
2005年1月、ドイツで放映されたドキュメンタリー番組「戦利品としての女性・ドイツ国防軍と売春 (Frauen als Beute -Wehrmacht und Prostitution)」では、ドイツ軍が1904年、フランス人の売春婦を使い官製の慰安所を始め、後にはポーランドやウクライナの女学校の生徒を連行し、慰安婦にしたことを報じた。
フランス軍慰安婦[編集]
フランス軍、特にフランス植民地軍では「移動慰安所」という制度(慣習)があった[175][176]。「移動慰安所」は、フランス語でBordel militaire de campagne、またはBordels Mobiles de Campagne(略称はBMC)と呼ばれ、第一次世界大戦・第二次世界大戦・インドシナ戦争、アルジェリア戦争の際に存在した[177]。移動慰安所はモロッコで成立したといわれ[178]、ほかアルジェリア、チュニジアにも存在した[179]。慰安婦には北アフリカ出身者が多かった[175]。現地人女性は防諜上の観点から好ましくないとされた[180]。秦郁彦は、このフランス軍の移動慰安所形式は、戦地で日本軍が慰安婦を連れて転戦した際の形式と似ていると指摘している[175]。
米軍慰安婦[編集]
アメリカの公娼制と売春禁止運動[編集]
アメリカ合衆国では南北戦争時に性病予防のための管理売春を計画し、戦後の1870年にセントルイスでヨーロッパ型の公娼制が導入され[181]、ニューヨーク、シカゴ、シンシナティー、サンフランシスコ、フィラデルフィアでも計画がすすめられた[182]。
同時に公娼制度・売買春反対の運動がおこり、1880年代からは純潔十字軍が社会浄化運動を行い[183]、米国純潔連合、米国自警協会、米国社会衛生協会などの組織がつくられ、娼婦を「白人奴隷」と表現し、公娼制度を「白い奴隷制度」とセンセーショナルに報告し、WASPの公共心に道徳的なパニックをひきおこした[184]。またアメリカでは娼婦への反感と人種差別がむすびつき、1875年には世界ではじめて中国人娼婦の入国禁止法を制定し、のちに国籍問わず娼婦の入国を禁止し[185][186]、さらに中国人娼婦を口実に1882年に中国人排斥法が成立し、また日本人娼婦も排斥された[187]。サンフランシスコ労働者党のデニス・カーネーは中国人と日本人排斥運動を行い、1892年5月にサンノゼ市のサンタクララ町で、「(中国人と)同じアジアの奴隷が流れ込んでいる。日本には馬も馬車も何もなく、人間がその代役を勤めている。女は十歳にしていうをはばかる職業に従事するため、政府より許可状をもらう」「日本人には貞操という観念はまったくない。男と女が野獣と同様に無茶苦茶に交合する」などと演説し、日本人娼婦や労働者の排斥を訴え、群衆から拍手で迎えられた[188]。当時のアメリカの売春宿は一般的に最貧地域にあり、黒人、東欧移民が多く、太平洋沿岸では中国人、日本人娼婦がおり、肌の色で区分されることもあり、たとえばサンフランシスコの娼家では最上階は白人娼婦、下の階に中国人、日本人、メキシコ人女性が営業していた[189]。1903年、1907年、1910年と外国人女性を含む娼婦排斥法が厳格化し、1910年のマン法では不道徳な目的による女性の移動が禁止され、さらにあらゆるセックス行為が罪に問われるようになり、紅灯地区は閉鎖され、売買春は地下に潜るようになり、娼婦は公共の売春宿を失ったため、電話、街頭、マッサージ・パーラー、ダンス・ホールなどで客をとるようになり、また経営も組織犯罪シンジケートに移っていった[190]。
植民地フィリピンの米軍慰安婦・公娼制[編集]
アメリカ本国は全国レベルでは公娼制を持たなかったが、植民地で公娼制度を導入した[182]。米西戦争でスペインに勝利したアメリカが1898年にフィリピンを占領してからは雨後の筍のように売春宿が蔓延し、また米軍は、現地の娼婦の検診を施したため、宣教師がこれらを訴えた[191]。1902年4月、キリスト教婦人矯風会(WCTU)のマーガレット・エリスがマニラ管理売春や児童買春の実態を報告するなどフェミニズムからの抗議を受け、米国政府は性病検査と検査料金徴収を中止し、健全な娯楽施設、読書室、体育館をかわりに建設するとした[191]。ルーズベルト大統領は現地娼婦と軍との関係を不明瞭にしたが、フィリピン軍政責任者のルート陸軍長官は診断料や診断証明書の料金がなくなっただけと語ったような実情であった[182]。のちにマーガレット・エリスと政府とのあいだで裏取引が発覚しており、その後も米軍慰安所は実質的に存続し、フィリピンで売春街を紅灯街に限定するようにし、性病検査を継続しながらもアメリカ政府が公式に関与していないように努力した[192]。
米軍目当ての売春宿と性病検査はその後も第二次世界大戦、ベトナム戦争、1990年代の米軍の一時撤退まで継続し、廃止されることはなかった[193][182]。また、アメリカ人女性、フランス人、イタリア人、ロシア人、ユダヤ人の白人娼婦もボンベイ、シンガポール、サイゴン、香港、上海、ハルビン、マニラなどで就業した[194]。
フィリピンの状況はその後も断続的に報告されるが、管理売春反対運動は後退した[195]。理由としては当時のフェミニストは米国の帝国主義と植民地主義を支持していたことがあげられ、矯風会もフィリピン、ハワイ、プエルトリコ領有を支持し、米国が神の目的を実現する救済者国家であると信じていた[195]。
ハワイ・中国・占領地での米軍慰安婦[編集]
アメリカ軍は1941年米陸軍サーキュラー170号規定において、「兵士と売春婦との接触はいかなる場合でも禁止」されたが、実際には買春は黙認されていた[196]。米海軍の根拠地であるハワイでは「組織的売春 (organized prostitution)」が設置され、登録売春宿(慰安所)が設置されていたとされる[197]。1942年に昆明では、フライング・タイガースが性病感染で有名な売春宿のせいで「空軍の半数が飛べなかった」とのセオドア・ホワイトの証言がある[198][199]。1943年夏のシシリー島占領後は、ドイツ・イタリア軍の慰安所を居抜きで利用している[200]。太平洋戦線ではビルマ方面で日本軍の慰安所を参考に売春婦をインドで集め慰安所を設置していた。しかし慰安所について米国国内で論争が発生し、1944年9月には、売春宿(慰安所)の廃止が決定され[197]、1945年4月24日付で「海軍作戦方面における売春について」との通達が米国陸軍高級副官名で出され、同年9月1日に発令された[201]。
占領期日本での米軍慰安婦[編集]
詳細は「特殊慰安施設協会」を参照
占領軍による日本の一般女性に対するレイプ事件が予測された為、日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」(ニコラス・クリストフによる)を募集し、連合軍向けの慰安所を設立し、総計55,000人が集まった[9]。占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[202]。
占領軍の性対策については警視庁が8月15日の敗戦直後から検討し、8月22日には連合軍の新聞記者から「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が入った[203]。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった[204]。8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視庁総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画し、翌日の8月18日には橋下政実内務省警保局長による「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」との通達が出された[205]。早川紀代によれば、当時の慰安所は東京、広島、静岡、兵庫県、山形県、秋田県、横浜、愛知県、大阪、岩手県などに設置された[206]。また右翼団体の国粋同盟(総裁笹川良一)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を9月18日に開業している[207]。こうした慰安所は公式には特殊慰安施設協会と称され、英語ではRecreation and Amusement Association(レクリエーション及び娯楽協会, RAA)と表された。しかし、占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した[208][209]。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた[210][211]。またGHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した[212]。1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた[213]。その後の朝鮮戦争では韓国人女性が慰安婦として集められる(#大韓民国軍慰安婦)とともに、日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、また朝鮮半島へも日本人慰安婦が連れて行かれたこともあった[214][215]。
「韓国軍慰安婦」および「在韓米軍慰安婦問題」を参照
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し[216]、関係諸国との請求権問題を解決し[217]、また同時に在日米軍の駐留が容認された[218]。その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51,暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校の四年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[219]。1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた[220]。日本の運動側には「醜業婦」観があり、たとえばYWCAの植村環は『婦人公論』(1952年5月号)で「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」とする一方で慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、「パンパン」を「大方は積極的に外人を追いかけて歩き、ダニのように食いついて離れぬ種類の婦人」と述べたり、「あんなに悪性のパンパンに対しては、白人の方だって、あの位の乱暴は働きたくなりますさ」などと語るなど[221]、売春問題を買う男ではなく売る女性の方を問題としていた[222]

日本軍慰安婦[編集]



”日本軍将兵を追いかけて川を渡る慰安婦”


”尋問を待つ中国人の日本軍慰安婦。男性は英国空軍中尉”。1945年8月8日、ビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)の連合国軍キャンプにて、ティトマス軍曹によって撮影。
詳細は「日本の慰安婦」を参照
日本と日本統治下朝鮮における近代公娼制[編集]
19世紀後半の日本では、1872年のマリア・ルス号事件を契機に芸娼妓解放令と人身売買禁止令を出したが、遊郭は存続した[223]。1876年に開国した李氏朝鮮の日本人居留地に日本の遊郭も開業し、1881年以降は貸座敷業者と芸娼妓の営業規則が定められ、営業許可証の取得、課税も開始された[29]。1885年の京城領事館達「売淫取締規則」によりソウルでの売春業は禁止された[224]。しかし、日清戦争後(1895年以降)は料理店での芸妓雇用が公認(営業許可制)され[224]、釜山、ソウル、鎮南浦等で遊郭が再び形成された[29]。
1900年の大審院判決「娼妓廃業届出書に調印請求の件」 によって自由廃業運動が盛んになり[223]、同年娼妓取締規則が制定。娼妓の年齢を18歳以上とした(従来は15~16歳)。1904年に欧州で「醜業を行わしむるための婦女売買取締に関する国際協定」が締結された[34]。
1905年の日露戦争の勝利によって日本が朝鮮を保護国として以降、朝鮮での日本の売春業者が増加した[29][224]。1906年に統監府が置かれ制度が整備されるとともに遊郭、朝鮮人業者も増加した[224][29][225]。1908年、警視庁は妓生取締令・娼妓取締令を出し、朝鮮の伝統的な売春業である妓生を許可制にし、公娼制に組み込んだ[29]。取締理由は売買人の詐術によって本意ではなく従事することを防ぐためとされた[29]。清(中国)での日本租借地関東州でも1909年に日本人娼妓の営業を禁止されたが、芸妓・酌婦の公娼行為は黙認された[31]。
1910年に「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」が締結[34]。韓国併合以降は取締が強化され、1916年には朝鮮で娼妓年齢下限が内地より1歳低い17歳未満に設定された[224]。
第一次世界大戦〜日中戦争[編集]
第一次世界大戦前後には戦争景気で朝鮮京城の花柳界は全盛を極めた[224]。一方で、併合初期には朝鮮人女性は妻と詐称し売られていたが、1910年代後半には路上で騙され誘拐される事例が増加し、13歳の少女も検挙された[224]。「曖昧屋」とも呼ばれた小料理店[226][224]に女性を騙して売却するものもいた[227][224]。1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった[228]。
1921年、国際連盟で婦人及児童ノ売買禁止ニ関スル国際条約が締約された(23カ国)[34]。日本は娼妓取締規則があり年齢に関する第五条(21歳未満を禁止)について留保した。
日本は第一次世界大戦で連合国軍として勝利し、中華民国に対して対華21カ条要求を要求、日中関係は悪化した。1931年、満州事変が勃発し、翌1932年には上海事変がとなり、日本軍専用の初の慰安所が上海に設置され[229][230]。1932年に長崎県の女性を騙して上海の慰安所に連れて行った日本人斡旋業者が婦女誘拐海外移送罪で逮捕された(1937年大審院で有罪判決[231][232])。
1930年代の朝鮮における女子誘拐事件


中国に売り飛ばした朝鮮人の人身売買組織が検挙。1933年6月30日付東亜日報


朝鮮半島の悪徳業者が100名を超える婦女子を売り飛ばす。1939年8月31日付東亜日報
1930年代の朝鮮では斡旋業者らによって10代少女らの誘拐事件が頻発し、新聞で多数報道された[228]。1932年、元巡査の男(33歳)が業者とともに少女を恐喝し、誘拐した容疑で検挙[233]。1933年5月には斡旋業者が16歳の少女を350円で買い、戸籍を偽造し営業許可を取ろうとしていた[234][235]。1933年6月3には少女を路上で誘拐し中国に売却していた男が逮捕、さらに誘拐された少女が男に20ウォンで売却された後に殺害された[236][235]。1934年4月にも災害地での処女誘拐が発覚[237]、同年7月には養父から売却された11歳の少女が警察に保護された[238]。1936年3月15日には「春窮を弄ぶ悪魔! 農村に人肉商跳梁 就職を甘餌に処女等誘出」との見出しで、農村で「人肉商」(人身売買)業者による処女誘拐が報道された[235][239]。
南京事件と慰安所


聖戦大勝の勇士を大歓迎する日本女性によるサービスを提供することが掲示されている慰安所の入口
1937年、日中戦争がはじまり、1937年7月29日の通州事件では中国軍に日本人居留民のほか朝鮮人慰安婦も多数虐殺された。同年12月の南京攻略戦では南京事件が発生。日本軍による大量虐殺と強姦が発生したとされ、戦後論争になった(南京大虐殺論争)。1937年12月21日の在上海日本総領事館警察署長が「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」を出し、前線での慰安所設置が報告され[33]、また岡村寧次は慰安所は強姦対策でもあったと述べている[240]。しかし強姦は跡を絶たなかった[241][242][243][244][245]。
1938年5月にもビルマのマンダレー駐屯地で慰安所があり[246]、1938年11月4日には南支派遣軍(第21軍)古荘幹郎部隊より支那渡航婦女に関する件伺が出され、慰安婦約四百名の渡航配意を要請。
売春斡旋業者の取り締まり (1937-1938)[編集]
日中戦争がはじまった1937年から1938年にかけて売春斡旋業者の取締が強化され、1937年8月31日には外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」が出され、斡旋業者の取り締まりについての注意命令が出された[33]。1938年1月には[[群馬県]、高知県、山形県が業者の取締を政府に要請している[33]。神戸の業者は3000人を募集し、契約は二年、前借金は500円から1000円まで、年齢は16才から30才迄とあった[33]。1938年2月7日の和歌山県知事が「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」を通達し、軍を騙り慰安婦に勧誘した男らが誘拐容疑で逮捕された[33]。1938年2月には茨城県、宮城県も取締を要請[33]。こうした各県からの要請をうけて内務省は1938年2月23日に支那渡航婦女の取扱に関する件を通達し、慰安婦は満21歳以上に限定し、身分証明書の発行の際には婦女売買または誘拐を点検し、募集に際し軍の名を虚偽でかたる者も厳重に取り締まるよう命じた[247][33][248]。


軍慰安所従業婦等募集に関する件。陸軍省兵務局、1938年3月11日大臣官房決裁。
また頻発する人身売買・誘拐事件に対し、陸軍省は1938年3月4日、軍慰安所従業婦等募集に関する件を発令し、女性の募集方法に誘拐などがある場合は取締るよう命じた。この通牒の解釈をめぐって、日本軍が慰安婦募集に組織的に関与していたとする主張(吉見義明[249][250])があり、朝日新聞は1992年1月11日記事でこの通達を日本軍が朝鮮の少女を強制連行した証拠として報道した。他方、秦郁彦、小林よしのり、高橋史朗、水間政憲[235]らは通達は悪徳業者の取締であり、日本軍の関与は良識的なものであったとしている。
その後も朝鮮での人身売買事件は多発し、1938年11月15日には、群山市の紹介業者が釜山で女性を遊郭に売却したとして逮捕され[251][235]、1939年3月には河允明誘拐事件が発覚[252][253]、斡旋業者の河允明夫婦は1932年頃から朝鮮の農地でいい仕事があるとして約150人の貧農を満州や中国に700円〜1000円で人身売買していた[254][253][255]。東亜日報は「誘拐した百余の処女」「貞操を強制蹂躙」と「処女」たちが河夫妻に誘拐されたと報道[256]、社説「誘引魔の跋扈」で朝鮮の悪徳業者を批判した[257]。雑誌「朝光」も「色魔誘拐魔 河允明」と題して、処女の貞操が蹂躙されたと報じた[258]。また、続いて逮捕されたペ・シャンオンは1935年から1939年にかけて約100人の農村女性を北支と満州に、150余人を北支に売却していた[253]。また下級役人が戸籍偽造に協力していたことも発覚した[253]。
1939年5月、朝鮮総督府警察は中国人による朝鮮人養女を引き取ることを禁止した[259]。1939年8月にも「処女貿易」を行なっていた「誘引魔」が逮捕され[260]、釜山の斡旋業者が100名以上の女性を誘拐していたと報道があった[261][235]。
1940年9月19日には『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』[262]が配布され、「略奪、強姦、放火、俘虜惨殺等、皇軍たるの本質に反する幾多の犯行を生じ、為に聖戦に対する内外の嫌悪反感を招来し、聖戦目的の達成を困難ならしめあるは遺憾」として、慰安施設は「殺伐なる感情及び劣情を緩和抑制」するとして、特に性的慰安所は「志気の振興、軍紀の維持、犯罪及び性病の予防等に影響する」とした。
太平洋戦争[編集]


『京城日報』(1944年7月26日付)
「慰安婦至急大募集」
年齢 17歳以上23歳まで
勤め先 後方○○隊慰安部
月収 300円以上(前借3000円まで可)
『毎日新報』(1944年10月27日付)
「軍慰安婦急募集」
行先 ○○部隊慰安所
応募資格 年齢18歳以上30歳以内身体強健女性
募集期日 10月27日より11月8日
契約及待遇 本人面接後即時決定
募集人員 数十名
希望者 左記場所に至急問議の事
京城府鍾路区樂園町195 朝鮮旅館内光③2645(許氏)
1941年12月、太平洋戦争勃発。日本内地では1941年の灯火管制下の治安維持のために戦時犯罪処罰ノ特例ニ関スル法律を制定し、性犯罪の厳罰化が図られた[263]。
1944年9月にビルマの戦いのミッチーナー陥落後の掃討作戦において米軍に捕獲された慰安所経営者と朝鮮人慰安婦への尋問「米国戦争情報局心理作戦班報告」では、日本の斡旋業者が業務の全容を説明せずに慰安婦を募集したこと、契約で前借金は数百円、応募女性には娼婦もおり、生活環境は買物や外出が可能で健康診断もなされ比較的良好であり、将兵とスポーツ、ピクニック、娯楽、社交ディナーも楽しんだ。接客を断る自由もあり、日本軍人と結婚した者もいたこと、慰安婦は月平均で1500円の総収益を上げ、約半分を経営者に返済したといったことが記録されている。
戦後の慰安婦問題については、#慰安婦問題を参照。
朝鮮・韓国における公娼制と慰安婦[編集]

朝鮮の公娼制[編集]


平壌にあった妓生学校
妓生制度[編集]
詳細は「妓生」を参照
朝鮮には中国の妓女制度が伝わったとされる妓生(きしょう、기생、キーセン)制度があった[264]。高麗時代に伝わった[264][29]とも、新羅時代の源花が発祥とする説もある[265][266]。また、百済遺民で賤民だった楊水尺らが流浪しているのを高麗人李義民が男を奴婢に女は妓籍に登録管理したことに由来するとも[267][268]、百済遺民の女性を飾り立て高麗女楽を習わせたことが発祥ともいわれる[265][269]。
妓女制度はもとは宮中の医療や歌舞を担当する女卑として妓生(官妓)を雇用する制度であったが、のちに官吏や辺境の軍人の性的奉仕を兼ねるようになった[270][264]。高麗は官妓(女官)として政府直属の掌学院を設立した[267]。李朝時代に妓生は国境守備将兵の慰安婦としても活用され、国境の六ヶ所の「鎮」や、女真族の出没する白頭山付近の四ヶ所の邑に派遣され、将兵の裁縫や酒食の相手や夜伽をし、士気を鼓舞した[271]。
李氏朝鮮の1410年には妓生廃止論がおこるが、反対論のなかには妓生制度を廃止すると官吏が一般家庭の女子を犯すことになるとの危惧が出された[264]。山下英愛はこの妓生制度存廃論争をみても、「その性的役割がうかがえる」とのべている[264]。4代国王世宗は、妓生を廃止すると官吏(奉使)が人妻を奪取するという論を認め「奉使は妓をもって楽となす」として妓生制度を公認した[272]。李氏朝鮮は妓生庁を設置し、ソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った[267]。
李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗と10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した[273]。とりわけ燕山君は暴君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した[274]。燕山君は、全国から美女であれば人妻であれ妾であれ献上させるよう命じ[274]、未婚の処女を「青女」と呼んで選上させたり、各郡の8歳から12歳の美少女を集め、淫した[274]。妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて斬殺した[274]。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には万歳山上の月宮に妓生3000余人が囲われた[274]。
官卑・奴婢としての妓生
高麗・李朝時代の身分制度では賤民階級としての奴婢と七賤があった[275]。七賤とは商人・船夫・獄卒・逓夫・僧侶・白丁・巫女(ムーダン)のことで奴隷ではなかった[275]。これに対して、奴婢は主人の財産として隷属するもので、七賤には及ばない身分であった[275]。奴婢はさらに公賤と私賤があった[276]。奴婢は売買・略奪の対象であるだけでなく、借金の担保であり、贈り物としても譲与された[276]。従母法では、奴婢の子は奴婢であり、したがってまた主人の財産であり、自由に売買(人身売買)された[276]。そのため、一度奴婢に落ちたら、代々その身分から離脱できなかった[276]。
妓生は官妓だったが、身分は賤民・官卑だった[267][224]。朝鮮末期には妓生、内人(宮女)、官奴婢、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、有罪の逃亡者は「七般公賤」と呼ばれていた[268]。婢女は「事実上の家畜」であり、婢女を殺害しても罪には問われなかったとして、林鍾国は「韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っ掛かっている年ごろの娘たちの遺棄死体があったといわれる。局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に奥方に殺された不幸な運命の主人公であった」と述べている[277]。林鍾国は、婢女が主人の性の玩具になった背景には、朝鮮の奴隷制・身分制度のほか、当時の「両班は地位が高いほど夫人のいる内部屋へ行くことを体面にかかわるものと考えられたので、手近にいる婢女に性の吐け口を求めるしかなかった」ためとし、若くて美しい官婢が妾になることも普通で、地方官吏のなかには平民の娘に罪を着せて官婢に身分を落とさせて目的をとげることもあったとしている[275]。
朝鮮社会では様々な娼婦・遊女の形態があり、遊女の総称を蝎甫(カルボ)といい[265][278]、妓生も含まれていた[278][279]。また、性的奉仕を提供するものを房妓生・守廳妓生ともいった[267]。
妓生は一牌(イルベ)といわれ、妓生学校を卒業後は宮中に出たり、また自宅で客をとったり、30歳頃には退妓し、結婚したり、遣り手や売酒業(実質的には売春業)を営んだ[280]。
二牌(イベ)は、殷勤者(隠勤子)といい、隠密に売春業を営んだ女性をさし、一牌妓生崩れがなったという[280]。
三牌は搭仰謀利といい、近代化以前は京城に散在していたが、のちに詩洞(シドン)に集められ、仕事場を賞花室(サンファシル)と称して、三牌も妓生と呼ばれるようになった[280]。
ほかカルボには仏教寺院で尼僧として売春をおこなった花娘遊女(ファランユニョ)がいる[280]。僧侶が仲介したのは李朝時代に儒教が強大になった結果、僧侶は賤民の地位に落とされ、寄進等も途絶えたためともいう[280]。また昼は曲芸や仮面劇を興行し、夜は売春を行った女社堂牌がおり、男性の男寺堂(ナムサダン)は鶏姦の相手を、女性の女寺堂(ヨサダン)は売春した[280]。社堂(サダン)集団の本拠地も安城の青龍寺という寺院だった[280]。
色酒家(セクチュガ)は飯盛女、酌婦で、旅館などで売春を行った[280]。売酒と売春の店舗をスルチビといい、近年でもバーやキャバレーにスルチプ・アガシ(酒場女)、喫茶店(チケット茶房)ではタバン・アガシ(茶房女)、現在でもサウナ房(バン)(ソープランド)や「頽廃理髮所」ともよばれる理髪店でミョンド・アガシ(カミソリ娘)という女性がいる[280]。
朝鮮には春画はないとも一部でいわれてきたが、画家申潤福や金弘道の「四季春画帖」など性交の場面を描いた朝鮮春画の登場人物はほぼすべて妓生と客であった[281]。川村湊はこうしたエロティックアートで妓生だけが登場人物となった背景に朝鮮儒教があり、「たとえ虚構の絵画のなかであっても、淫らなことを行い、性を剥き出しにし、露骨な痴態を示すのは妓生だけ」でなければならなかったと指摘している[282]。
政治外交と妓生
燕山君など王が女淫に耽ったため、臣下も風俗紊乱であった[274]。川村湊はこの時代を「畜妾、畜妓は当たり前のことであり、妓生の、妓生による、妓生のための政治というべきもの」で、朝鮮は「妓生政治・妓生外交」を行っていたと評し[271]、さらに現在の金氏朝鮮(北朝鮮)が全国から美女を集め「喜び組」と呼んで、気に入った女性を要人の夜伽に供していたことから、金正日は「燕山君などの正統な後継者」と評している[283]。
妓生は中国に貢女(コンニョ)つまり貢ぎ物として「輸出」された[271]。高麗時代には宋の使いやまた明や清の外交官に対しても供与された[271]。李朝時代でも成宗が辺境の娼妓は国境守備の将兵の裁縫のために置いたものだが都の娼妓は風俗紊乱をもたらしているために妓生制度を廃止したらどうかと提案したところ、臣下は「中国の使臣のために女楽を用いるため妓生は必要です」と妓生の外交的有用性をもって答えたため、成宗は満足して妓生制度を公認している[272]。これらは日本人(倭人)に対しても行われ、1507年の『権発日記』には倭の「野人」にも美しい妓生を供進したと記録されている[271]。
川村湊は、朝鮮の中国外交は常に事大主義を貫き、使臣への女色の供応は友好外交のための「安価な代価(生け贄)にほかならなかった」とし、また韓国併合以後の総督府政治もこのような「妓生なくして成り立たない国家体制」を引き継いだものであるとした[271]。
日本の遊郭業の進出から近代公娼制の確立まで[編集]
1876年に李氏朝鮮が日本の開国要求を受けて日朝修好条規を締結した開国して以降は、釜山と元山に日本人居留地が形成され、日本式の遊郭なども開業していった[29]。朝鮮が日本の保護国になり、韓国併合以降は、朝鮮の売春業は日本の近代公娼制に組み込まれていった[29][224]。
日本統治時代の朝鮮における公娼制や人身売買事件とその取締り等については、#日本軍慰安婦、日本の慰安婦を参照。
大韓民国軍慰安婦[編集]


韓国・アメリカ軍に捕えられた北朝鮮軍看護婦。捕えられた北朝鮮女性はレイプされたり強制的に慰安婦にさせられることもあった[5]。


アメリカ軍(美軍)慰安婦2名が韓国釜山で悲観のあまり自殺したことを報じる1957年7月21日付東亜日報
詳細は「韓国軍慰安婦」を参照
第二次世界大戦後、朝鮮半島は連合軍の軍政下におかれ、1948年8月15日に大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が独立する。1950年より南北朝鮮の間で朝鮮戦争が勃発、1953年7月27日に休戦する。この朝鮮戦争中に韓国軍は慰安婦として「特殊慰安隊」を募集している。また韓国はアメリカ合衆国との関係を緊密にし、朝鮮戦争やベトナム戦争では連合軍を形成したため、韓国の慰安所および慰安婦は米軍をはじめとする国連軍(UN軍)も利用した。1996年に韓国慶南大学教授の金貴玉が韓国陸軍本部が編纂した『後方戦史(人事篇)』(1956年)の調査[2][3]で、朝鮮戦争時に大韓民国陸軍が慰安婦を徴集していたことを明らかにしたが、韓国の学会や運動団体からは韓国軍慰安婦は公娼であるし、また「身内の恥をさらすもの」「日本の極右の弁明の材料となりうる」と警告し、韓国国防部所属資料室の慰安婦資料の閲覧は禁止された[176]。金喜午大将は韓国軍慰安婦は恥ずかしい軍部の恥部であるが事実であると証言している[5]。
その後、新証言なども出され、韓国軍慰安婦のケースでは韓国政府やアメリカ政府による強制があったとされている[56][2][3][284]。朝鮮戦争中に韓国軍に逮捕された北朝鮮人女性は強制的に慰安婦にされることもあった[5]。さらに韓国軍の北派工作員は北朝鮮で拉致と強姦により慰安婦をおいていた[3]。
韓国軍は慰安婦を「特殊慰安隊」と名付け、慰安所を公式に設置した[176][285]。尉官将校だった金喜午の証言では陸軍内部の文書では慰安婦は「第五種補給品」(軍補給品は4種までだった)と称されていた[176]。金貴玉によれば、韓国軍慰安婦の類型には、軍人の拉致、強制結婚、性的奴隷型、昼は下女として働き、夜には慰安を強要されたり、また慰安婦が軍部隊へ出張する事例もあった[176]。特殊慰安隊の設置理由は、兵士の士気高揚、性犯罪予防であり、これは日本軍慰安婦と同様のものであった[176]。計画は陸軍本部恤兵監室が行い[176]、1950年7月には韓国政府は軍作戦識見を米軍を中心とした国連軍に譲渡しており、最終的な承認は連合軍が行ったとされる[176]。韓国政府・軍は慰安婦に対して「あなたたちはドルを得る愛国者」として「称賛」されたという[56]。設置時期は1950年、韓国釜山に韓国軍慰安所、馬山に連合軍慰安所が設置され[11]、1951年には釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所が設置される[11]。ソウル特別市地区には3ヶ所[176]、ほか江陵市、春川市、原州市、束草市にも慰安所が設置された[176]。慰安婦は前線に送られる際には、ドラム缶にひとりづつ押し込めて、トラックで移送し、前線では米兵も利用した[285]。1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦にともない各慰安所は1954年3月に閉鎖された[176]が、その後も存続した[44]。金貴玉は当時設置を行った陸軍関係者がかつて日本軍として従軍していたことなどから、「韓国軍慰安所制度は日本軍慰安所制度の延長」としている[176]。
朝鮮戦争後も売春斡旋業者による少女誘拐事件が発生している。1956年4月には「売淫ブローカー」によって少女2名が誘拐[286]。また同1956年7月11日の東亜日報は「田舎の処女誘引 売春窟に売った女人検挙」との見出しで、少女を誘拐し売春を強要した容疑で老婆が逮捕されたと報道している。
1959年10月には、慰安婦の66%が性病保菌であることが検査でわかった[287]。1961年1月27日、東光劇場で伊淡支所主催の慰安婦向け教養講習会が開かれ、800余名の慰安婦、駐屯米軍第7師団憲兵部司令官、民事処長など米韓関係者が出席、慰安婦の性病管理について交流を行った[288]。同1961年、ソウル市社会局が「国連軍相手慰安婦性病管理士業界計画」を立案、9月13日には「UN軍相対慰安婦」(国連軍用慰安婦)の登録がソウル市警で開始された[289][8]。
ベトナム戦争では韓国軍兵士がベトナム人女性を多数強姦し、ライダイハン(𤳆大韓)という混血児が生まれた[290]。韓国軍が制圧した地区で殺害されなかった女性は、ほとんど慰安婦にされたといわれる[291]
1980年代までは韓国人女性達は、韓国政府やアメリカ人により在韓米軍相手の売春を強制されていた[56]。その後、ロシア人女性やフィリピン人女性達が増加した[11]。朝鮮戦争時に設置された束草の慰安所は休戦後、私娼の集娼地が形成され、1990年代まで軍の慰安所として機能していた[176]。 1990年代以降の韓国では、アメリカ軍基地の近くでフィリピン人女性達が、韓国人業者により売春を強制されている[292][293]。1990年代中ごろから2002年までに5000人のロシア人やフィリピン人女性達が密入国させられた上で売春を強制させられていた[292][294]。2000年代では韓国軍相手の女性達の90%がロシア人やフィリピン人女性などの外国人とされている[284]。2009年現在のアメリカ軍基地近接地で売春を強制させられている女性に占めるロシア人女性の比率は減少しているがフィリピン人女性の比率は増加している[293]。なお、韓国では現在は売春は違法行為である[295]。
2009年、韓国系アメリカ人の元慰安婦らが米軍と韓国政府に対して提訴した(在韓米軍慰安婦問題)。原告の慰安婦らは韓国政府は米軍のためのポン引きだったと批判している[56]。
2012年9月にはソウル鍾岩警察署長として風俗街「ミアリテキサス」の取締りを行ったこともある漢南大学警察行政学科教授の金康子はテレビ朝鮮の番組[296]で韓国では生計のために売春業を行う女性たちへの支援制度もなく、また警察力の限界もあるとして限定的な公娼制度を導入すべきと主張した[297]。
慰安婦問題[編集]

ウーマン・リブの運動家田中美津は1970年に「従軍慰安婦という一大便所集団」の「大部分は朝鮮人」だったと述べた[298][299] 。1973年、千田夏光は『従軍慰安婦』(双葉社)で朝鮮人女性が20万連行され、そのうち5〜7万が慰安婦とされたと書く。のちのアジア女性基金調査(高崎宗司)ではこれはソウル新聞の記事の誤読とされ、また数値の根拠は不明としている(本項「総数」節参照)[300]。千田の本は1978年に三一書房から再刊され50万部販売された[301]。1976年には金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 )が出版。1982年には歴史教科書問題が発生、日中韓の外交問題にも発展した。
吉田清治の証言と活動[編集]
詳細は「吉田清治 (文筆家)」を参照
1977年に戦中に陸軍労務報告会下関支部動員部長であったと自称[302]する吉田清治が『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)を刊行し、軍令で済州島で女性を強制連行して慰安婦にしたと告白した。吉田は1982年に高木健一弁護士が主導した在樺コリアン訴訟でも済州島での朝鮮人奴隷狩りを証言したが、被告の日本政府代理人は反対尋問をしなかった[303]。さらに吉田は1983年7月に済州島で200人の女性を拉致したと証言する『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を出版[304][14]。同1983年12月に天安市に私費で謝罪碑をたてるために訪韓し、土下座した[305]。1983年11月10日には朝日新聞が「ひと」欄で吉田清治の謝罪碑活動を紹介した。歴史家の家永三郎も吉田の著作を賞賛した[306][307]。
1988年のキーセン観光問題から慰安婦問題がはじまったとする申恵秀の見解もある[308][309]。
1989年に吉田の著書が韓国で翻訳されると、済州島の済州新聞は1989年8月14日に許栄善記者による記事を掲載、そこで済州島城山浦の85歳の女性の「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という証言を紹介し、吉田の著作には「裏付けの証言がない」と批判した[310][14][311]。また同記事で済州島の郷土史家金奉玉も、数年の追跡調査で吉田証言が事実ではないことが判明したとし、吉田の本は「日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物」と批判した[312][304][10]。
1990年6月6日の労働省清水伝雄が民間の業者が慰安婦をつれていると国会で発言したことが韓国で「清水妄言」として騒ぎになり、尹貞玉が挺身隊対策協議会を結成、海部首相へ公開書簡をおくった[313]。なお秦郁彦は、吉田証言が挺対協の起爆力となったとしている[314]。また元慰安婦の金福善は吉田証言をきっかけに名乗り出たと証言している[315][316]。その後も韓国、フィリピン、台湾などで、元慰安婦であったと名乗り出る女性が多数現れ、日本の弁護士らの呼びかけで、日本政府に謝罪と賠償を求める慰安婦訴訟(アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件、釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟、在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件など)が多数行われた。
1991年5月22日朝日新聞大阪版で吉田は「木剣ふるい無理やり動員」したと発言、同年10月10日朝日新聞大阪版でも「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したと証言した[317][318]。同年11月22日の北海道新聞で吉田は「アフリカの黒人奴隷狩りと同様の狩り立てをした」と発言した[319]。吉田は韓国やアメリカでも講演を行ない、海外メディアも報道した[320]。
1992年3月に歴史家の秦郁彦が済州島で現地調査を行い、城山浦の老人が「男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかった」という証言を得たり、済州新聞の許栄善記事を発見し、吉田証言には根拠がないことを産経新聞1992年4月30日、『正論』1992年6月号に発表した[321]。その後、1996年に吉田は「本に真実を書いても何の利益もない」と事実と創作を混ぜて書いたと述べた[322][323][324]。朝日新聞は1997年3月31日に吉田の「著述を裏付ける証言は出ておらず、真偽は確認できない」との記事を掲載した[325]が、訂正記事は出さなかった[326]。
李栄薫ソウル大学教授によれば吉田証言は今日の韓国人の集団的記憶形成に決定的に寄与した[14]。1992年7月31日の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書でも吉田の著書を証拠として採用し、その後も修正していない[327]。また1996年の国連のクマラスワミ報告でも吉田証言は証拠として採用されている[328]。
2012年9月5日にも朝鮮日報は吉田清治の手記を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行が立証されるのに十分」と主張した[329]。
朝日新聞の報道・慰安婦訴訟[編集]
日本では慰安婦問題の報道を『朝日新聞』が主導した。(東京の社会部市川速水記者が取材チームを率いていた[330]。)1991年5月22日『朝日新聞』大阪版が吉田証言を紹介し[331]、同1991年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。同年8月15日韓国ハンギョレ新聞は金学順が「親に売り飛ばされた」と報道し[304]、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあり[332]、西岡力は、朝日新聞による一連の報道は誤報であると述べている[333]。しかし朝日新聞による「従軍慰安婦」報道は韓国でも伝えられ、反日感情が高まり、慰安婦問題は日韓の政治問題となっていった。
1991年10月7日から1992年2月6日にかけて韓国のMBC放送が20億ウォンの予算[334]を投入して製作したドラマ『黎明の瞳[335]』を放映し、最高視聴率58.4%を記録した。物語ではヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したり、朝鮮人兵士を虐待する場面が放映され、反日感情を煽った[334]。原作は金聖鍾の小説で、1975年10月から韓国の日刊スポーツ新聞で連載された[336]。
1991年12月6日には、福島瑞穂(現社民党党首)、高木健一弁護士らが日本国に慰安婦補償を求めた初の損害賠償請求裁判を提訴した[337](アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件。2004年最高裁で敗訴)。これを朝日新聞は当該訴状で「親に売られてキーセン(妓生)になった」と記載されているものを「日本軍が慰安婦を女子挺身隊として強制連行した」と書き変えて報じ[337]、福島らも訴状を「軍に連行された」に変更した[338]。当時NHK職員だった池田信夫によると、福島瑞穂や高木健一らは原告として韓国で金学順を発掘し、福島はNHKにこの話を売り込み、NHKのスタジオでは金学順に「親に売られてキーセンになり、義父に連れられて日本軍の慰安所に行った」と台詞指導をおこなった。この時点では敗戦で無効になった軍票で支払われた給与の賠償が目的だった[338]。
宮沢喜一首相の訪韓を前にした1992年1月11日、朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」と報じる。この記事は陸支密大日記を吉見義明が「発見」したと報道されたが、研究者の間ではこの資料は周知のものであった[339]。同日朝日新聞夕刊では「韓国メディアが朝日新聞の報道を引用して報道」とのソウル支局電を掲載した[340]。翌1月12日の朝日新聞社説では「歴史から目をそむけまい」として宮沢首相には「前向きの姿勢を望みたい」と主張した。またジャパン・タイムズは1月11日夜のテレビ番組で渡辺美智雄外相が「なんらかの関与があったということは認めざるをえない」との発言を、「日本の政府責任者が戦時中に日本軍がhundreds of thousands(何十万人)ものアジア人慰安婦への強制売春 (forced prostitution) を初めて認めた」との記事を掲載した[340]。1月13日、加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」の談話を発表[304]、1月14日には韓国で、女子挺身隊を誤解歪曲し「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」と報道[304]、同1月14日、宮沢首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ[340]、1月16日には天皇の人形が焼かれる[340]など反日デモが高まる韓国に渡り、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束した[304]。毎日新聞ソウル支局の下川正晴特派員は「こんな国際的に非礼な記者発表は見たことがない」と述べている[341]。
宮沢首相による謝罪から「河野談話」まで[編集]


河野洋平
宮沢首相は盧泰愚大統領との首脳会談で事実関係の調査を経ることなく[342]慰安婦問題について何度も謝罪し[342][304]、「真相究明を約束する」と表明した。一方で同じ92年、日本の歴史家秦郁彦によって吉田清治本に対する済州島での現地調査の結果が公表され、吉田の主張が虚偽であることが確認された[304]。
秦の指摘によれば[343][344]、日本弁護士連合会(日弁連)は1992年に戸塚悦朗弁護士を海外調査特別委員に任命し、海外の運動団体と連携し、国連へのロビー活動を開始し、同1992年2月、戸塚弁護士はNGO国際教育開発 (IED) 代表として、朝鮮人強制連行問題と「従軍慰安婦」問題を国連人権委員会に提起し、「日本軍従軍慰安婦」を「性奴隷」として国際社会が認識するよう活動していったとされる[345][344]。当時日弁連会長だった土屋公献も日弁連が国連において慰安婦を「性的奴隷(Sex SlavesまたはSexual Slavery)」 として扱い、国連から日本政府に補償をおこなうように働きかけたことを言明している[64]。その結果として1993年6月のウィーンの世界人権会議において「性的奴隷制」が初めて「国連の用語」として採用され[64]、1996年のクマラスワミ報告書では「軍隊性奴隷制 (military sexual slavery)」と明記されることとなったと西岡力は主張する[346]。
1992年(平成4年)7月6日、加藤紘一内閣官房長官が 「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する加藤内閣官房長官発表」を行い、慰安所の設置などに関して当時「政府の関与があったことが認められた」と発表した。
中韓国交正常化
1992年8月24日、韓国と中国が中華人民共和国と大韓民国との外交関係樹立に関する共同声明を発表、戦後はじめて中韓の国交が正常化される[347][348][349]。
1992年12月25日には釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟が始まる(2003年最高裁で敗訴確定)。1993年4月3日には、元慰安婦の宋神道が提訴し、在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件についての裁判がはじまる(2003年最高裁で敗訴確定)。
1993年、韓国政府は日本政府に日本の教科書に慰安婦について記述するよう要求し、1993年6月30日には、日本の高校日本史検定済み教科書七社九種類のすべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載されることがわかった[304](歴史教科書問題参照)。
河野談話
日本政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、韓国政府は受け入れずに強制性を認めるよう要求する。日本政府は再度調査を行ない、1993年(平成5年)8月4日、宮沢改造内閣は慰安婦調査の結果「いわゆる従軍慰安婦問題について」[350]を発表した。ここでも強制連行を示す資料は存在しなかったと明記されたが、同日、政府調査発表の際に、河野洋平官房長官が「河野談話」を発表[351]。河野談話では「日本政府が強制したということは認めたわけではない」が[352][353]、日本軍の要請を受けた業者によって女性が意志に反して集められ、慰安婦の募集について「官憲等が直接これに加担したこともあった」「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」として、「日常生活に強制性が見られた」と解釈し[352]、反省とお詫びの意を示した。その後、河野談話が国内外から出される対日非難決議の根拠とされることもあり[354][355][353])[342]、河野談話の評価については議論が分かれている。
1994年には永野茂門法務大臣が「慰安婦は公娼である」と述べたことで辞任に追い込まれた[304]。
村山談話
1994年8月31日に村山富市内閣総理大臣が元慰安婦に対しておわびの談話(村山談話)を出す[356]。
吉田清治による証言否定[編集]
吉田清治は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認め[304]、朝日新聞は1997年に「吉田証言の真偽は確認できない」との記事を掲載した[304]。2007年に安倍晋三首相は「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁している[357]。
平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた従軍慰安婦が記載される[304]。1996年6月に中学校のすべての歴史検定教科書に慰安婦の記述があったため、新しい歴史教科書をつくる会が発足し、教科書を「自虐史観」と批判した。慰安婦問題は歴史教科書問題にもなっていった。その後、1999年には中学歴史教科書からは「従軍慰安婦」という用語が消えた。
第2次橋本内閣での閣議決定[編集]
1997年1月に 第140回通常国会において第2次橋本内閣の平林博内閣外政審議室長は「政府が調査した限りの文書には慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見いだせなかった」と答弁した[要出典]。1997年3月12日の国会で、政府調査に関わった平林博内閣外政審議室室長は、小山孝雄参議院議員の質問に「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁[358]。同1997年3月には当時宮沢内閣の内閣官房副長官であった石原信雄も「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない」、また元慰安婦を強制的に連れてきたという軍関係者の証言を探したがなかったと明かした[359]。他方、強制連行の証拠はなかったが、韓国政府の強硬な要請に押され、政治判断として強制性を認めたとを明かした[359][360][361]。こうした当時の外交判断に対して、確実な証拠もなく、日本を不利な立場に立たせたとして、「河野談話」への批判[362][363]もなされるようになり、強制連行の有無などをめぐり激しい議論が繰り広げられ、また河野談話で「強制性」を認めた日本が、「強制連行」を否認したとして、韓国、中国、アメリカ合衆国の反発や批判が繰り返された。
1997年12月に「軍や官憲による慰安婦の強制連行を直接的に示すような記述は見られなかった」とする答弁書を閣議決定した。直接証拠は存在しないものの「証言聴取なども参考に総合的に判断した結果」であるとした[364]。
アジア女性基金と韓国政府による受領拒否[編集]
1995年、日本政府は元慰安婦に対する償い事業のために女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)を設立した。1996年には橋本龍太郎総理が元慰安婦(日本人女性を除く)に対しておわびの手紙を出す[217]。同時に、サンフランシスコ講和条約、二国間の平和条約及び諸条約(日韓基本条約など)で法的に解決済みであることを明らかにし、また河野・村山いずれの談話も慰安婦という職業の存在を認め名誉を傷つけたとはしているが強制連行などをしたとの見解は表明していないともコメントした[356][217]。また橋本は女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であるとの認識のもと、道義的責任の観点から、アジア女性基金の事業への協力、日本人女性を除く元慰安婦に対する医療・福祉支援事業に対し資金拠出などを行った[217]。1997年1月よりアジア女性基金は償い金の給付と医療福祉援助を行い、韓国人、台湾人、オランダ人、フィリピン人女性など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給した[365]。元慰安婦の認定が行われていないオランダに対しては現地の慰安婦関係者に対する生活改善支援事業に、元慰安婦の特定が困難なインドネシアに対しては高齢者社会福祉事業を援助した。2001年には小泉純一郎首相がおわびの手紙を[366]を各慰安婦に送った。
しかし、韓国では日本政府に対し「法的責任を認め、国家補償を行なえ」と主張する運動が強く、アジア女性基金を受け取ろうとする元慰安婦に対して、受け取るべきでないと圧力が加えられた。韓国政府や運動団体は「基金を受け取らないと誓約すれば300万円・200万円を支給する」と表明し、韓国では半数以上の元慰安婦が受け取りを拒否した。
韓国政府は当初、日本の償い事業を歓迎した。しかし、1996年10月18日、挺対協の尹貞玉は償い金を受け取るということは「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニたちを初めから売春婦扱いすることだ」として、受け取らないよう呼びかけた[367]。1997年に11名の元慰安婦が償い金を受領したが、韓国政府も挺対協の強い反対運動によって方針を変え、1998年に韓国政府はアジア女性基金の償い金の受け取りは認めない方針を示した[365][368]。日本側は医療施設建設など事業転換を提案したが、1999年6月に韓国政府は改めて拒否を通告した[365]。韓国政府はアジア女性基金による償い金受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給することとし、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した[365][12][368]。一方、アメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は謝罪と補償を求めているが[56][12]、自発的な売春婦であるとして一切の謝罪・補償をおこなっていない[12]。韓国政府やアメリカ人によりアメリカ軍相手の売春を強制されていた女性達は、韓国政府の日本に対する絶え間ない賠償要求は韓国自身の歴史に対する欺瞞であると訴えている[56]。フィリピン政府は売春を強制されたフィリピン人女性のために韓国で訴訟活動を行っている[294]。2000年代以降、韓国挺身隊問題対策協議会や韓国政府主催の世界韓民族女性ネットワークは日本軍慰安婦への謝罪と賠償を求める活動を世界各地でおこなっている[369][370][371][372][373]。日本からは民主党の岡崎トミ子議員が韓国での慰安婦デモに合流している[374]。
[目次へ移動する]
国連人権委員会の報告書[編集]
クマラスワミ報告[編集]
国連人権委員会には韓国の運動団体や日本弁護士連合会[375]や日本カトリック教団[376]などの組織が積極的なロビー活動を行った。1996年にクマラスワミ報告書が国連人権委員会に提出され、慰安婦制度が国際法違反であり、日本政府に対して慰安婦に対する賠償を勧告した。しかしクマラスワミ報告書は事実誤認と歪曲が多数あると日本では指摘されている[377][378][379][380]、またその後創作であることが判明した吉田清治の証言も事実として典拠とされている。
マクドゥーガル報告書[編集]
1998年にマクドゥーガル報告書が提出された[353]。日本政府は、マクドゥーガル報告書はゲイ・マクドゥーガル個人報告書にすぎず、受け入れられないと回答した[381]。慰安婦問題を国連で扱うように活動してきた日弁連海外調査特別委員[382]の戸塚悦郎弁護士は、国連小委員会による日本政府への勧告にはいたらなかったことを失望し、ロビー活動の不足を訴えた[383][381]。のちに戸塚弁護士らの政治的活動は日弁連内部から目的外・職務外行為であるとして批判され、戸塚弁護士は1998年に解嘱された[63]。このマクドゥーガル報告書でも「20万」の慰安婦が強制連行されたと報告されたが、これは日本のアジア女性基金の調査で出典の信憑性がないことが判明した(#マクドゥーガル報告書と荒船発言参照)。この報告書が提出されると、報告書を検証することなしに日本のカトリック教会枢機卿白柳誠一は日本政府に謝罪と補償を求める[384]とともに「応じよ!国連勧告」100万人署名運動を呼びかけた[376]。
1998年4月に慰安婦訴訟「関釜裁判」で山口地裁下関支部は河野談話発表によって国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し慰安婦側の損害賠償の訴えを一部認めた(後に控訴審で棄却)。
2000年に日韓米などのNGO団体によって市民法廷(模擬法廷)の日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷が開かれ、「昭和天皇および日本国は有罪」との「判決」が下された。
慰安所営業者の半数は朝鮮人であり[385]、日本軍は誇大広告を禁止するとともに渡航する女性が本人自ら警察署で身分証明書の発給を受けて誘拐でないことを確認するよう通達を出し[386]、朝鮮では日本の官憲が日本人や朝鮮人の女性を誘拐して売買をおこなったものを取り締まっていたが[387]、河野談話以降は海外から「日本政府が数十万人の女性を強制連行して性奴隷にした」として非難され、日本国内では女性の人権などの観点をめぐって様々な議論となった。さらに元慰安婦を名乗る韓国人女性たちの証言の信憑性については疑問視されてもおり、証言が虚偽または創作でないかの検証が韓国や日本で行われている[388]。
米国での慰安婦訴訟[編集]
ヘイデン法[編集]
詳細は「ヘイデン法」を参照
1999年2月26日、元反戦運動家でカリフォルニア州上院議員のトム・ヘイデン (en:Tom Hayden) とロッド・パチェコ州下院議員・マイク・ホンダ下院議員らが、第二次世界大戦中にナチスや日本から強制労働を強いられた被害者が州裁レベルで賠償を求めることができるとする州法の戦時強制労働補償請求時効延長法(ヘイデン法)を提案した[389][390][391]。同州法は7月15日にカリフォルニア州議会両院で全会一致で可決、施行された[389]。提訴期限は2010年末で、それまでに提訴すれば時効は適用されないとされた[392]。
対日非難決議 (1999)[編集]
ヘイデン法成立直後の8月にはマイク・ホンダ下院議員[389]が、第二次世界大戦時の戦争犯罪について日本政府が公式謝罪と賠償を求める決議を提案、カリフォルニア州議会は採択した[393][392]。ホンダ議員が提案した「日本の戦争犯罪」とは、強制労働と5万人の捕虜抑留者の死、30万人の中国人を虐殺した南京大虐殺、従軍慰安婦の強要を指す[389]。議会ではジョージ・ナカノ下院議員が「日本に対する古い敵意をあおることは、日系人に対する反発を駆り立てる」として反対し、また原爆投下は残虐行為ではないかとする緑の党議員に対して民主党議員は「原爆投下によって戦争終結をはやめ、多くの人命が救われた」と反論するなどした[389]。ホンダ議員とナカノ議員の対立は、日系アメリカ人社会の内紛ともなり、ダニエル・イノウエ上院議員がナカノ議員側を支持した[394]。マイク・ホンダ議員は中国系の反日団体の世界抗日戦争史実維護会から多額の献金を受領し緊密な連携をとっているとして、ナカノ議員はホンダ議員が対日非難活動を行う理由は「選挙キャンペーンでの政治献金の問題だ」と語っている[394]。なお、決議には法的拘束力はない[389]。
戦時強制労働の対日賠償請求運動[編集]
抗日戦争史実維護会などの支援活動
1999年9月9日には中国系の反日市民団体の抗日戦争史実維護会(世界抗日戦争史実維護会)が日本に強制労働を強いられた元米兵・中国・朝鮮人ら約500人が日本企業1000社に対して損害賠償を求める集団訴訟を行うと発表[395]。抗日戦争史実維護会は世界に41の支部を持ち、対日集団訴訟を支援した[389][396]。このほか、サンフランシスコに本部を置く国際NGO「アジアでの第二次世界大戦の歴史を保存するための地球同盟」[389]や、在米韓国・中国人からなる反日団体の「ワシントン慰安婦問題連合Inc (Washington Coalition for Comfort Women Issues Inc.)」なども集団訴訟を支援した[397][398]。ワシントン慰安婦問題連合は1992年12月に結成され[399]、2000年12月の東京での女性国際戦犯法廷にも関わり、また抗日戦争史実維護会と同じく『ザ・レイプ・オブ・南京』の宣伝販売を支援した[397]。古森義久は、これらの反日組織は日本の戦争犯罪を誇張し、日本の賠償や謝罪の実績をなかったことして非難を続けるとした[397]。さらに対日攻撃の手段が米国での訴訟やプロパガンダであり、慰安婦問題訴訟はその典型であり、「米国での日本糾弾は超大国の米国が国際世論の場に近いことや、日本側が同盟国の米国での判断やイメージを最も気にかけることを熟知したうえでの戦術だろう」と評している[397]。集団訴訟の原告側の弁護士は2001年春に上海で開かれた慰安婦問題シンポジウムに参加している[389]。
1999年9月14日、元米兵が三菱マテリアル、三菱商事をオレンジ郡上位裁判所に提訴[389]。10月8日には韓国系アメリカ人が太平洋セメントを集団訴訟でロサンゼルス郡地裁に提訴した[400]。10月22日には在米韓国人が石川島播磨重工業と住友重機械工業を集団訴訟でサンフランシスコ上位裁判所に[389]提訴し、訴状では戦時中日本に強制連行された朝鮮人の総数は約600万人で、約150万人が日本本土に連行されたと主張された[401]。2000年2月24日、元英兵がジャパンエナジーを提訴[389]した。
日本側の反応
1999年11月9日、柳井俊二駐米大使は日本国との平和条約第14条、19条で請求権問題は解決しており、集団訴訟には法的根拠がないと答弁した[389]。また対日集団訴訟は、ナチス戦争犯罪追求に便乗したもので「日本はそのような犯罪は犯していない。杉原千畝氏のような人もいる。ナチスと一緒にされてはたまらない」と述べた[389]。
アメリカでの慰安婦訴訟[編集]
2000年9月18日、第二次世界大戦中に日本軍に慰安婦にさせられたとする在米中国人や韓国、フィリピン、台湾人女性ら計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした[397][402]。原告のなかにはアメリカ市民でないものも多かったが外国人不法行為請求権法に依拠した[402][403]。アメリカに限らず国際民事訴訟においては外国主権国家に対して主権免除の原則があり、外国の国家を裁くことはできない[397][403]が、アメリカ法の外国主権者免責法 (en:Foreign Sovereign Immunities Act; FSIA)[404] では国家の商業行為は例外とされており、元慰安婦ら原告側は「日本軍慰安婦制度には商業的要素もあった」として訴えをおこした[397]。日本政府は「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)での国家間の合意で解決ずみ」としてワシントン地裁に訴えの却下を求めた[397]。
連邦地方裁判所判決「ウォーカー判決」と米政府見解
2000年9月21日、サンフランシスコ連邦地方裁判所は「日本国との平和条約において請求権は決着済み」「追加賠償を求めることは同条約によって阻まれている」として元米兵や元連合軍人らの集団訴訟12件に対して請求棄却した[389]。集団訴訟の請求内容が日本国との平和条約に密接に関係するため、サンフランシスコ連邦地方裁判所のボーン・R・ウォーカー(英語版)判事が「アメリカの連邦法や条約に関わる訴訟は連邦裁判所が裁判管轄権を有する」として27件を一括処理した[389]。ウォーカー判事は、元軍人による13件の訴訟については、連合国が対日賠償請求権を放棄した日本国との平和条約14条に抵触することは明白とし、さらに原告が日本国との平和条約26条について「日本は他の六カ国との協定で賠償責任を認める好条件を出したから、連合国国民も請求できる」と主張した件については「26条の適用請求を決定するのは条約の当事者である米国政府であって、原告個人ではない」と却下した[389]。他方、中国・韓国人・フィリピン人らの集団訴訟には他の争点があるため審理継続とされた[389]。
2000年10月31日、米上院は「強制労働被害者と日本企業の賠償問題について政府は最善の努力をすべき」とする決議案[405]を全会一致で可決した[389]。
2000年12月13日の法廷でウォーカー連邦裁判事は5件を請求棄却し、これにより元軍人の請求はすべて棄却され、「戦後補償は平和条約で解決済み」とする日米両政府の立場が司法判断で確認された[389]。被告側のマーガレット・ファイファー弁護士は「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求権はない」とし、条約締結国でない韓国と中国については日韓基本条約と日中共同声明が日本国との平和条約の枠内にあり、請求権は放棄されていると述べ、また米司法省代理人も「カリフォルニア州法それ自体が合衆国憲法に違反し、アメリカと日本、韓国、中国、フィリピンの国際関係を破壊するもの」と指摘した[389]。
クリントン民主党政権下の米政府の意見書では
「平和条約は中国や韓国との賠償問題については二国間条約で解決するよう求め、日本はそれを果たした」
「こうした各条約の枠組みが崩れた場合、日本と米国および他国との関係に重大な結果をもたらす」
と明記された[406][389]。
2001年5月、共和党ブッシュ政権下の司法省はワシントン地裁に法廷助言(アミカス・キュリエ)を行い、「日本国との平和条約の解釈が論点となる訴訟の管轄権は連邦裁判所に属する」とし[389]、またアメリカ政府は外国主権者免責法にもとづき日本政府の要請を支持すると表明した[403] 。2001年6月にはアメリカ上院司法委員会の公聴会で国務省・司法省ともに「訴訟は無効」とした[389][407]。
2001年9月4日、元米兵が日本政府に1兆ドルの賠償金を請求して提訴[408]。9月6日に、米国務省のバウチャー報道官が対日賠償請求運動について「平和条約で決着済み」と声明を出し[408]さらに8日にはパウエル国務長官が同見解を述べた[409]。
しかし、9月10日には米上院で、司法省と国務省が対日賠償訴訟に関して意見陳述を行うことを禁じる修正条項法案が可決した[410](提案者は共和党ボブ・スミス上院議員)。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。10月には元駐日大使のトーマス・フォーリー、ウォルター・モンデール、マイケル・アマコストが修正法案は「米国の安全保障に緊要な条約の破棄になりかねない法案」であり、「訴訟に根拠を与えるいかなる措置も平和条約の重要な条項に違反する」として、日本国との平和条約は米国の太平洋地域の安全保障の要石であり、またドイツは連合国と平和条約を締結しなかったが、日本はドイツと異なり明確に決着したこと、また元軍人には日本からの接収資産から一人3000ドル(2万3000ドル)の補償もすでに行われていると批判した[411]。11月20日、米国議会は上下両院で可決した修正法案を最終審議の議会両院協議会で抹消した[412]。
2001年9月17日、米連邦裁ウォーカー判事は中国・韓国・フィリピン人による対日賠償請求訴訟について「フィリピンは平和条約を批准しており、賠償請求をできない」、中国・韓国人については「ヘイドン法が憲法違反であり、したがって訴訟も無効」と判決し、訴えを却下した[413]。原告は控訴。
2001年10月4日、ワシントン米連邦地裁は慰安婦訴訟について日本側の主張を認め請求棄却[402][414]。原告側はD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)へ控訴。
米最高裁判決
2003年1月15日にカリフォルニア州高裁は、1999年に施行された戦時中の強制労働への賠償請求を認めたカリフォルニア州法は合憲とした[415]。しかし、1月21日にサンフランシスコ連邦高裁は
「アメリカ合衆国憲法は外交権を連邦政府のみに与えており、戦後補償をめぐりカリフォルニア州が訴訟を起こす権利を州法でつくり出すことはできない[415]」
「個人の賠償を解決するために裁判所を使うことは米国の外交権に反する[416]」
としてカリフォルニア州法のヘイドン法を憲法違反と司法判断し、日本企業への集団訴訟28件をすべて却下した[415][416]。
慰安婦訴訟についてワシントンD.C.巡回区控訴裁判所(高裁)が主権免除の商業活動例外は法の不遡及によって適用されないとして2003年6月27日に一審判決を支持し棄却[417]。2003年10月6日、米国連邦最高裁判所は上告棄却[418]。2004年6月14日、米国連邦最高裁判所はワシントン高裁へ差し戻す[419]、2005年6月28日、ワシントン高裁は平和条約と請求権については司法府に審査権が付与されない政治的問題として一審判決を再び支持した[420]。原告側は最高裁へ再審請求し、2006年2月21日にアメリカ合衆国最高裁判所は、却下の最終司法判断を下した[397][421]。このアメリカ最高裁の判決によって米国の司法当局および裁判所が日本軍慰安婦案件については米国で裁くことはできなくなり、また米国で訴訟を起こすこともできなくなった[397]。これらの集団訴訟に際して米政府・国務省・司法省は一貫して「サンフランシスコ平和条約で解決済み」との日本政府と同じ立場を明言した[397]。ただし立法府(議会)はこの限りではない[397]ため、その後も下院などで非難決議が出されていく。
第一次安倍政権と米国下院決議[編集]


マイク・ホンダ下院議員
2007年1月末に民主党のマイク・ホンダ下院議員らが慰安婦問題に関する日本への謝罪要求決議案を提出した。過去にも同種の決議案は提出されていたが、いずれも廃案になっていた[422]。2月15日の下院公聴会で、李容洙、金君子、ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。2007年2月25日フジテレビ放送の『報道2001』でホンダ議員は「反日決議案ではなく和解を意識したもの」と述べた[422]。
安倍発言[編集]
安倍晋三首相は2007年3月1日に「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言[423][424]、3月5日には対日決議案は「客観的事実に基づいていない」と述べた[425]。安倍首相は他方で当時の慰安婦の経済状況について考慮すべきこと、斡旋業者が「事実上強制していたケースもあった。広義の解釈では強制性があった」とも発言した[424]。この安倍発言は国内外で大きな波紋を呼び、ワシントンポストは「二枚舌」と批判した[426]。対日非難決議案の動きについて麻生太郎外務大臣は3月11日のフジテレビ番組で北朝鮮、韓国、中国などによる日米離間(分断)の反日工作と指摘した[427]。3月31日には元慰安婦へ補償を行なってきたアジア女性基金が解散。またアルジャジーラは「アメリカ合衆国は日本と中国・韓国との間に問題を作り出そうとしている」と報じた[428]。
第一次安倍内閣閣議決定
安倍内閣は2007年3月16日に「河野談話をこれからも継承していく」としつつ、「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」とし、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」とする政府答弁書を閣議決定した[429][430]。また第二次安倍内閣においては、総裁選から衆議院選挙を経て一貫して「河野談話の見直し・改変」を唱えていたが[431]、2013年5月24日、「安倍内閣の閣議決定は河野談話を引き継いでいる」と辻本清美の質問主意書には応えている[432][433]。
2007年4月3日、米議会調査局報告書では、日本軍は朝鮮半島での直接の徴集を行っていないこと、これまでに日本は謝罪や賠償努力を行なってきたことを指摘して、これ以上の賠償要求を行うことに疑問を呈した[434]。安倍首相は4月27日に初訪米し「私の真意が正しく伝わっていない」と、また慰安婦が当時苦しい状況にあったことに「心から同情する」と述べた。前日の4月26日にはワシントン・ポストに在米韓国人団体が「日本は全面的な責任をとったことは一度もない」と意見広告を掲載していた。
2007年5月4日のAP通信が終戦直後のGHQと特殊慰安施設協会 (RAA) について報道。ホンダ議員はRAAについても議会調査局に調査依頼した。
米国下院121号決議[編集]
2007年6月26日にアメリカ合衆国下院外交委員会でアメリカ合衆国下院121号決議は賛成39票、反対2票で可決、7月30日に米下院本会議で可決した。この決議では日本軍慰安婦制度を「かつてないほどの残酷さと規模であった20世紀最大の人身売買の1つ」とし、「性奴隷にされた慰安婦とされる女性達への公式な謝罪、歴史的責任、あらゆる異論に対する明確な論破及び将来の世代にわたっての教育をすることを日本政府に要求する」と明記された[435]。日本では読売新聞、日本経済新聞、産経新聞、毎日新聞が米下院決議を批判し、朝日新聞は社説で安倍首相は河野談話と同様の談話を出すべきと報じた[436]。しかし日本政府は反論も抗議もせずに、安倍首相も「残念だ」とコメントするにとどまった[437]。古森義久は「日本の従順な態度は高く評価されて、もう同じ糾弾はしないようになると思ったら、とんでもない。現実は正反対なのだ。日本が黙っているのを見透かしたように同種の非難の矢がさらに激しく、さらに多方面から飛んでくる」と指摘している[437]が、この米国下院での決議以降、カナダ、ヨーロッパ、アジアでも対日謝罪決議が続いた。
韓国系・中国系住民によるロビー活動[編集]
在米韓国人のロビー活動
対日謝罪要求決議の採択は、在米韓国人によって全米各地に慰安婦謝罪決議案採択のための汎対策委員会が設立され、対日謝罪要求決議が可決されるよう韓国系アメリカ人によるアメリカ下院議員へのロビー活動の結果だった[438]。日本政府も採択阻止のため4200万円かけてロビー活動を展開したが、失敗した[439]。在米韓国人による米国議員への政治後援金は2007年から2011年までで総額300万ドルにおよび、政党別では民主党へ179万7155ドル、共和党へ114万8597ドルで、年度別では2007年に70万4669ドル、2008年に101万2195ドル、2009年に86万4099ドル、2010年に36万4789ドルであった[440]。議員別ではマイク・ホンダが米国議員のなかで最も多額である13万9,154ドルの政治資金を集めた[440]。
在米中国人のロビー活動
マイク・ホンダ議員は在米中国人の反日団体の世界抗日戦争史実維護連合会(抗日連合会、Global Alliance for Preserving the History of WW II in Asia[441])からも政治資金の提供を受けている[442][443][444]。抗日連合会の本部は米国カリフォルニア州クパナティノで、ホンダ議員の選挙区内である[437]。その対日戦略の基本方針はアジアでの中国の覇権を確保するために日本の力を何があっても阻止するというもの[442]で、公式サイトでも「過去を忘却する民族がその過ちを今後繰り返すたびに、そのつど非難されねばならない」等と明記されている[445]。同団体は1997年にアイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』の宣伝と販売促進[443]、2005年には日本の国連安保理常任理事国入りに反対するために全世界で数千万人の署名を集めたり[443]、日本国内でも憲法9条改正の阻止[442]、従軍慰安婦問題・南京大虐殺・靖国神社問題などで戦争責任を繰り返し日本に叩きつけ、また米国をはじめとする世界各国での反日プロパガンダによって日米分断させ、日本の孤立化と弱体化をめざす[442]。2002年2月には上海で中国政府が開催した「第2次世界大戦の補償問題に関する国際法律会議」にも参加しており、中国政府との連携も指摘されている[442]。カナダでも抗日連合会支部が活動し、対日謝罪決議が採択された[437](後述)。
下院決議採択直後の2007年8月末にはマイク・ホンダ議員が中国系アメリカ人ノーマン・スー(徐詠芫)から資金提供を受けていたことが発覚し、謝罪した[446]。
米国での採択を受けて挺対協は対日謝罪要求決議が各国でもなされるよう運動し[438]、民団機関誌「民団新聞」も8月29日記事で日本への謝罪要求決議がアメリカに続けて世界各国で決議されるように活動することを呼びかけた[438]。2007年9月20日にオーストラリア上院、11月20日にオランダ下院、11月28日にカナダ下院で対日謝罪決議が採択された。
世界抗日戦争史実維護連合会カナダ支部のロビー活動
カナダの決議案では「日本政府は日本軍のための『慰安婦』の性的な奴隷化や人身売買は実在しなかったとするような主張は明確かつ公的に否定していくこと」と明記された[437]。カナダで対日謝罪決議を推進したのは中国系女性議員オリビア・チョウ(鄒至蕙)で[437]、またカナダには世界抗日戦争史実維護連合会の支部カナダALPHA(第二次世界大戦アジア史保存カナダ連合)がロビー活動を持続的に行なっており2005年にはカナダの教科書に南京大虐殺がユダヤのホロコーストに並んで記載され、この対日決議案も推進した[437]。カナダでの決議採択は2007年3月27日に国際人権小委員会で賛成4票、反対3票で可決、次にカナダ下院外交委員会で5月10日に審議されたがカナダ保守党議員らが「日本への内政干渉だ」「日本はすでに謝罪している」と反対、再調査として差し戻された[437]。以降、カナダALPHAの活動は過激化し、カナダ全土の中国系住民をはじめ韓国系・日系住民を動員し、トロントALPHA、ブリティッシュコロンビアALPHAなどの組織を編成、セミナーやロビー活動を展開した[437]。2007年10月に米国ロスアンジェルスで開催された抗日連合会主催の日本糾弾国際会議[437]でエニ・ファレオマバエンガ米国下院議員が「今後は女性の弾圧や人権の抑圧に関して、日本の慰安婦問題から次元を高めて、国際的な条約や協定の違反行為へと監視の視線を向けていくべきだ。日本ばかりを糾弾しても意味がない。日本にいまさら慰安婦問題などで賠償を払わせることはできない」と主張したが、カナダALPHA議長セルカ・リットは「日本国民の意識を高めるために日本政府を非難し続けることの方が必要」と反論、同会議の声明では日本のみを対象とした謝罪賠償が要求された[437]。
2007年12月13日にEUの欧州議会本会議でも対日謝罪決議が採択された[447]。翌2008年3月11日にフィリピン下院外交委[448]、10月27日に韓国国会は謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択[449]、11月11日に台湾の立法院(国会)が日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択する[450]など、サンフランシスコ講和条約締結国[451]を多く含む国から日本のみを対象とする決議が次々に出された。
これらの対日決議を採択した国には朝鮮戦争に国連軍として参加した国も含まれ[452]、それらの国は戦時中に韓国の慰安所を利用していた[453]。古森義久や渡部昇一は東京裁判やサンフランシスコ講和条約で日本軍の戦争責任や賠償は終わっており、講和条約以前のことを持ち出すことは国際法違反と批判している[454][455]。
日本の地方自治体の意見書
「慰安婦」問題に対して日本政府が誠実な対応をするよう求めた意見書を2008年3月28日に兵庫県宝塚市議会が採択したのを始めとして2010年6月までに民主、公明、共産系が多数を占める25の市議会で採択、2009年に民主党が政権獲得後に増加し[456]、東京の清瀬市・三鷹市・小金井市・国分寺市・国立市、千葉船橋市、大阪箕面市・泉南市、京都京田辺市・長岡京市、奈良生駒市、ほか札幌市、福岡市・田川市が採択した[457]。また民主党は2009年、戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案を提出した[458]。
2009年8月にはマイク・ホンダ議員が訪韓し、江原大学名誉博士号を受けたり韓国のナヌムの家を訪れ[459][460]、韓国外務省はホンダ議員の対日行動に感謝の意を表明するとともにFTA批准の協力を求めた[461]。
日本国内では2010年頃より、在日特権を許さない市民の会や主権回復を目指す会などの「保守系住民団体[462]」は、「日本軍の従軍慰安婦への謝罪と補償」を要求している団体と激しく対立している[462]。
日韓外交交渉と韓国行政裁判所による判決 (2009)[編集]
韓国による賠償請求に対して日本政府は、1965年の日韓基本条約と日韓請求権・経済協力協定締結で、1000億円以上を供与するとともに、日本と韓国及びその国民間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と条文に明記されており、また当時の韓国政府とともに確認したこと、従って法的に解決されたとの立場を再三言明している[463]。
2005年1月17日、韓国で日韓会談についての資料が公開され、韓国政府が「日韓基本条約」締結の際に、国民の個人請求権の放棄を確認していたことが初めて公になった。しかし韓国政府側は、2005年8月に1965年当時に「結ばれた協定には反人道的違法行為は含まない」と発表した[464]。
2009年8月14日、ソウル行政裁判所は「1965年に締結された日韓請求権並びに経済協力協定により日本政府から無償で支給された3億ドル(1965年当時のレートで1080億円)で徴用者への未払い賃金への対日請求が完結しており、大韓民国外交通商部としては「すでに補償は解決済み」とした[465][464]。1966年にも大韓民国大法院は慰安婦の損害賠償請求を不法行為に基づくものであるとして棄却している[51]。
韓国外務省による再請求と韓国憲法裁判所判決 (2011)[編集]
しかし、大韓民国外交通商部は2010年3月15日に、慰安婦については「1965年の対日請求の対象外」として「日本政府の法的責任を追及し、誠意ある措置を取るよう促している」と発表[466]。同年3月17日、日本政府は改めて「日韓請求権並びに経済協力協定により、両国間における請求権は、完全かつ最終的に解決されている」とする見解を発表した[467]。2010年4月28日、フィリピン最高裁は、フィリピン政府に日本政府への謝罪要求を支持するよう求める訴えを退けた[468]。
2011年(平成23年)8月、外務省は「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」を発表し、これまでの慰安婦関連事業および日本政府による償い事業について再度説明した。
憲法裁判所判決
2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した[469][470]。争点は、賠償請求権ではなく、賠償請求に関する日韓間の協定解釈の相違をめぐる争いの手続きを韓国政府が履行しないことは、韓国憲法の基本権侵害にあたるかどうかであった[470]。この裁判の事実認定ではクマラスワミ報告[471]、マクドゥーガル報告、アメリカ合衆国下院121号決議、釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟一審判決が用いられた[469][472]
2011年9月15日、韓国外交通商省の趙世暎東北アジア局長は「慰安婦と被爆者の賠償請求権が請求権協定により消滅したのかどうかを話し合うため、日韓請求権・経済協力協定第3条により両国間協議を開催することを希望する」という口上書を日本側に提出、9月24日のニューヨークでの日韓外相会談、10月6日のソウルでの日韓外相会談でも同様の要求をおこなう[473]。しかし10月19日のソウルでの日韓首脳会談では、慰安婦問題は議題にならなかった[473]。2013年5月22日、この件に関して岸田外務大臣が国会で「具体的な協議等が行われたということは承知しておりません」と答弁した。[474]
韓国・アメリカにおける日本軍慰安婦記念碑設置運動[編集]


日本軍が20万人を超える少女らを性奴隷にするため強制動員した卑劣な犯罪は忘れられるべきでなく絶対に認められるべきであると刻まれた石碑が2012年に韓国人の働きで設置されたアイゼンハワー公園[475]
詳細は「慰安婦の碑」を参照
2009年頃より米国で「慰安婦記念碑」を「ユダヤ人虐殺記念碑」と同等とみなして全米各地で建立する運動が韓国系住民によって行われるようになった[476]。韓国系住民が多く住むニュージャージー州バーゲン郡では11人の韓国系高校生が韓国系米国人有権者評議会 (the Korean American Voters' Council) とともに、日本軍の被害者である朝鮮人をアイルランド人、アルメニア人、ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人の苦難になぞらえて慰安婦の碑の建設を進め、非韓国系住民をも説得して署名を集めた結果、バーゲン郡は図書館など公共施設の入り口への設置を許可した[477]。2009年9月、米下院外交委員会は対日謝罪要求決議を国連でも採択するよう働きかけた[478]。
パリセイズ・パーク市
韓国系アメリカ人が住民の52%を占め、またジェイソン・キム副市長や議長も韓国系であるニュージャージー州パリセイズ・パーク市において韓国系米国人有権者評議会らが2009年8月から慰安婦碑の設置を計画し、2010年10月に「日本軍によって20万人以上の女性と少女が拉致された」と記された慰安婦の碑が設置された[479][480]。2012年5月に在ニューヨーク日本領事がパリセイズ・パーク市に対して、碑の撤去を求めたところ、市は撤去を拒否し、5月10日にはホワイトハウスでの市民請願運動が在米日本人を中心にはじめられた[481]。5月15日に自民党の領土に関する特命委員会が同市を訪問し抗議を質疑を行った[480]。キム副市長は「日本側の主張にこそ、根拠はない」と述べ、議長は韓国系住民が多い22のアメリカの自治体で同様の記念碑を設置する運動をこれから行っていくと述べた[480]。自民党の古屋圭司議員は「根拠のないことが、なし崩し的に既成事実化されていきかねない」と述べた[480]。また現地の日系住民からは日本人学校の生徒が犯罪者の子孫であるとして人種差別的ないじめをうけていると報告された[480][479]。同委員会は5月17日に日本政府に設置撤去と資料の公示を求めた[480]。
ソウル市日本大使館前


駐ソウル日本大使館前に設立された慰安婦少女像
2011年12月14日、ソウル市日本大使館前に、韓国挺身隊問題対策協議会が1992年より開催している抗議集会の開催1000回を記念し、旧日本軍慰安婦の少女をモチーフとした「平和碑」が建立された[482]。日本政府は抗議をおこない、建立中止を要求したが、韓国政府は日本側の要望を挺対協に伝達したものの工事を止めなかった。2011年、2012年にかけて朝鮮系中国人によって靖国神社・日本大使館放火事件が引き起こされたが韓国政府は政治犯であるとして容疑者を犯罪人引き渡し条約を適用せず日本へ引き渡すことを拒否した[483]。
戦争と女性の人権博物館
2012年5月5日、ソウル市西大門区に日本軍慰安婦問題について展示する戦争と女性の人権博物館[484]が3億円(35億ウォン)をかけて建設され[485]開館した[479]。日本でも日本建設委員会が結成され、多数の運動家・運動団体や研究者が呼びかけ人となり[486]、自治労、JR総連、NTT労働組合大阪支部などが寄付をした[487]。
ニューヨーク
2012年6月16日にはニューヨークのアイゼンハワー公園に「日本軍が性的奴隷にするため、20万人を超える少女らを強制動員した。日本軍が行った卑劣な犯罪は必ず認められるべきで、絶対に忘れられない」とする碑文が刻まれた慰安婦の碑が韓国系アメリカ人の働きによって設置された[475][488]。2012年6月21日には在米日本人によってホワイトハウスに真実に基づく行動をとるよう求める請願が出された[489][490]。7月21日までにホワイトハウスのホームページ上で行えるネット署名が25,000名に達するとアメリカ政府から公式な回答がなされることとなっている[489][490][491]。
2013年にはニュージャージー州フォートリー、カリフォルニア州グレンデール市などで慰安婦の碑設置が進められている(詳細は慰安婦の碑を参照)。
野田内閣での答弁[編集]
2012年に野田佳彦首相は、「強制連行の事実を文章で確認できず、日本側の証言もなかったが、いわゆる従軍慰安婦への聞き取りから談話ができた」との答弁をおこなった[492]。
2012年8月14日には李明博大統領によって天皇に謝罪を求める発言が行われた(李明博による天皇謝罪要求)。
近年の動向[編集]
2013年1月16日、ニューヨーク州議会でトニー・アベラ上院議員らが「日本軍慰安婦は人道に対する罪で20世紀最大の人身売買」と断定し、日本に謝罪を求める決議案を提出[493]、2013年1月29日に上院で採択された[494]。
2013年5月13日に橋下徹大阪市長が「歴史をひもといたら、いろんな戦争で、勝った側が負けた側をレイプするだのなんだのっていうのは、山ほどある。そういうのを抑えていくためには、一定の慰安婦みたいな制度が必要だったのも厳然たる事実だ」などと慰安婦問題について発言し、国際的な話題となった(橋下徹#慰安婦問題への対応参照)
2013年5月14日、読売新聞は、朝日新聞が1992年1月に報じた、女子挺身隊制度を「慰安婦狩り」とする誤報を含む、「日本軍が慰安所の設置や、従軍慰安婦の募集を監督、統制していた」との記事を発端とし、さらにその後、河野談話(謝罪)が曲解されたことで、日韓間の外交問題に発展したとする見解を示した[495]。

オランダ人慰安婦の強制連行に関する第二次安倍内閣閣議決定[編集]
2013年6月18日,第二次安倍内閣は、ジャワ島セマランほかの抑留所において日本軍がオランダ人慰安婦を強制連行を示す証拠が、バタビア臨時軍法会議の記録の中にあった事実を認める答弁書を閣議決定した(白馬事件も参照)[496]。
慰安婦・慰安所の諸相[編集]

詳細は「慰安所」を参照
日本政府調査をはじめこれまでの調査によれば、日本軍慰安所は日本、沖縄[299]、中国、フィリピン、インドネシア、マレーシア(マラヤ)、タイ、ビルマ、ニューギニア、香港、マカオ及びフランス領インドシナに設置されていた。また、労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のためにも事業場慰安所が設立された[33][497]
敗戦後、日本の各地に米兵対象の慰安所(特殊慰安施設協会)が設置された。
1946年2月14日、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が南朝鮮(現韓国)での公娼制を廃止[498]。
1950年、韓国釜山に軍慰安所の設置、馬山に連合軍の慰安所の設置がされる[11]
1951年、釜山慰安所74ヶ所と国連軍専用ダンスホール5ヶ所の設置が許可される[11]。韓国軍慰安所が設置される(特殊慰安隊)[11]。
韓国陸軍本部は韓国での慰安所の設置理由を以下のように説明している[2]。
士気昂揚はもちろん、戦争という事実に伴う避けることの出来ない弊害を未然に防ぐことができるだけでなく、長時間にわたる報われない戦闘によって後方との行き来が絶えているため、この性に対する思いから起こる生理作用による性格の変化などによって鬱病、その他の支障を招くことを予防するために、本特殊慰安隊を設置させた。
陸軍本部軍事監室「後方戦史(人事編)」1956年、148頁[10]

1966年までに、ベトナムに進駐しているアメリカ軍の師団キャンプごとに設置される[6]。
日本軍慰安婦の総数[編集]
実数[編集]
外地の日本軍・軍属の総数は、満州(40 - 66万人)を別として、太平洋~ビルマに展開した時期で140 - 150万人、「大陸打通作戦」の末期においては280万人程度[499]。慰安婦の総数については確定していない。
1942年9月3日の陸軍省人事局恩賞課記録(金原節三軍医大佐日誌)では、設置された軍慰安所は華北(北支)100、華中(中支)140、華南(南支)40、南方100、南海(南西太平洋)10、樺太10、計400ヶ所と報告した[500][501]。しかしこれらの慰安施設のすべてが慰安所であったかは不明であり、所在地数なのか軒数かも不明で、新設計画を含まれるのかも不明である[502]。一軒あたりの平均慰安婦数は10人であるから、400カ所で4000人〜8000人(現地人含む)となる[503]。秦郁彦の推算では総数約2万人である[504][500]。吉見義明は4万5000人と推算[500]。
日本政府アジア女性基金調査では慰安婦の総数は不明とし[500][505]、また、マクドゥーガル報告書における女性20万以上という数値の根拠には「1975年(1965年の間違い[500])」の自民党議員荒舩清十郎による「14万2000人」[506]があげられているが、荒船議員が1965年11月20日に選挙区の集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)で行った発言における数値については荒船議員が勝手にならべたものであり、これが根拠とされることは遺憾と明記している[500]。
慰安婦の民族別内訳は日本人、朝鮮人、台湾人、中国人、フィリピン人、インドネシア人、オランダ人がいた。秦郁彦は慰安婦は日本人が最も多く、次いで現地人女性、朝鮮人、台湾人、オランダ人とした[507]。しかし、正確な内訳を把握することは困難である[500][508]。
また当時の朝鮮半島の総人口は約2500万人前後[509]で、20歳前後の女性は約280万人とも推算される[510]。朝鮮での公娼の総数は1930年代から1942年までは日本人を含めて約1万人[511]。 日本内地の公娼は、第二次上海事変以前の1937年の21万をピークに太平洋戦争初期の1942年には14.5万人に減少するのに対し、中国本土の日本人娼婦は1935年よりも1940年時点では約1.2万人増加している[512][513][514]。
日本における挺身隊の結成率は1944年5月でわずか7%であり、挺身隊の結成率があまりにも低かったため、1944年8月の女子挺身勤労令で挺身隊は強制動員になった。1944年以降の12歳以上の生徒や学生の動員は300万人だったという(1940年当時の日本の人口は7,000~7,500万)[515]。
韓国政府認定の元日本軍慰安婦はすでに亡くなったものを合わせて、2004年には207人[368]、2005年には計215人で、内88人が死亡した[516]とし、2009年[517]と2011年には合計234人としている[518]。
20万説[編集]
1969年、1970年の韓国での報道[編集]
1969年、韓国の日刊紙が「挺身隊動員を受けた女性が20万人、その内、朝鮮人が5 - 7万」と報じる[519][520]。
1970年8月14日、ソウル新聞が「1943年から1945年まで、挺身隊に動員された韓・日の2つの国の女性は全部でおよそ20万人。そのうち韓国女性は5〜7万人と推算されている」と報道する[300]。しかし高崎宗司によれば、この「5〜7万」の推算の根拠は不明[300]。
ソウル新聞報道と千田夏光による「挺身隊20万、慰安婦7万」説[編集]
金英達と高崎宗司によれば、1970年8月14日のソウル新聞での「挺身隊に動員された日韓の女性は約20万、そのうち韓国女性は5-7万」という記事を、千田夏光は著書『従軍慰安婦』で、「『挺身隊』の名の元に彼女らは集められた」「総計20万人(韓国側の推計)が集められたうち、『慰安婦』にさせられたのは5万人ないし7万人とされている」と誤読したうえ典拠とし[300]、強制連行された女性の総数が「20万」、慰安婦が7万人という説が成立した。
また1984年には、1969年の報道を根拠に元東亜日報編集長の宋建鎬が「日本が挺身隊という名目で連行した朝鮮人女性は、ある記録によると20万人で、うち5 - 7万人が慰安婦として充員された」と述べた[521]が、李栄薫ソウル大学教授はこれは誇張であると批判した[519][522][523][524]。また、この数値は千田夏光がソウル新聞を誤読したうえで発表した数値[300]と同一である。
鄭鎮星による「8万〜20万」説[編集]
1993年、「挺身隊研究会」会長の鄭鎮星ソウル大学教授は「8万人から20万人と推定される慰安婦のうち、絶対多数を占めると思われている朝鮮人慰安婦」としたが、独自根拠不明[525]、また詐欺や誘拐事件を日本軍の強制連行に含めている。
民主党も8 - 20万人とする[79](数値の根拠不明だが、鄭鎮星の数値と同一)。
マクドゥーガル報告書と荒船清十郎発言[編集]
1998年、国連に提出されたマクドゥーガル報告書で慰安婦総数は「20万人以上」と書かれた[500]。その数値の根拠は「1975年の荒舩清十郎自民党議員による声明」とされた[526]。
荒舩清十郎の「14万2000人」説
しかし、アジア女性基金調査では同年の声明は存在しない[500]。アジア女性基金調査によれば、これは1965年(昭和40年)11月20日に荒舩清十郎議員が選挙区集会(秩父郡市軍恩連盟招待会)で行った発言を誤認したものである[500]。荒舩議員は当時の日韓基本条約交渉を説明するなかで「徴用工に戦争中連れて来て成績がよいので兵隊にして使ったが、この人の中で57万6000人死んでいる。それから朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ。合計90万人も犠牲者になっているが何とか恩給でも出してくれと言ってきた。最初これらの賠償として50億ドルと言って来たが、だんだんまけさせて今では3億ドルにまけて手を打とうと言ってきた」と発言した[500]。これについてアジア女性基金は、日韓条約締結時に韓国政府は、韓国人労務者、軍人軍属の合計は103万2684人、負傷ないし死亡数は10万2603人と主張していたと指摘し、また荒船発言の数字は「荒船氏が勝手にならべた数字」であり、このような個人の見解に依拠して国連委嘱報告が作成されたことを残念と批判している[500]。
上海師範大学「中国慰安婦問題研究中心」所長の蘇智良も1999年、荒船清十郎発言(14万2000人説)に依拠し、慰安婦総数は36万から41万で、このうち中国人慰安婦は20万と推算[500][527]。アジア女性基金はこの推算についても、根拠が荒船個人の見解であり、誤導された推論と批判している[500]。なお、蘇は1996年の計算では中国天津慰安所研究により、慰安婦総数を40万人、朝鮮人慰安婦20万人、中国人と日本人の慰安婦が各10万ずつとしていた。
北朝鮮は2005年4月にジュネーヴ国連人権委員会で、朝鮮人慰安婦の総数は20万人、強制連行された人数は840万人と主張した[528][522][523][529]が、これも李栄薫は虚構とした[522][523]。
ニューヨークタイムズ記者ノリミツ・オオニシも日本軍慰安婦は最大20万人とし[55]、慰安婦のほとんどが家庭から拉致され最前線に連行された10代の朝鮮女性であり、米軍の場合とはこの点で大きく異なるとしている[9]。
2009年の中央日報は20万人以上としている[530]。
2013年には、アメリカ合衆国ニュージャージー州やニューヨークのアイゼンハワー公園で建設された慰安婦の碑では「20万人以上の女性と少女が拉致された」「日本軍が性的奴隷にするため20万人を超える少女を強制動員した」と刻まれた[475]]]
韓国における「数十万」説[編集]
大韓民国国定教科書は数十万人の朝鮮女性が強制的に慰安婦にされ、650万人の朝鮮人が強制的に動員されたと記載されたが、李栄薫ソウル大教授は1940年当時の16歳から21歳の朝鮮女性は125万人で、20歳から40歳の朝鮮人男性は321万人であり、この数値は虚構であり、日帝被害が誇張されていると批判した[522][523][531]。
アメリカ合衆国教科書での「30万」説[編集]
2003年からアメリカ合衆国の数千校で100万人以上の学生に使用されている歴史教科書『Tradition & Encounters:A Global Perspective on the Past』では、慰安婦の80%が朝鮮人で、最大で30万人もの14-20歳の女性たちを強制連行して性行為を強要し、性病に罹ると殺害され、終戦時には「隠蔽するために慰安婦たちを大量虐殺(ジェノサイド)した」と記載された[532]。
「50万」説」[編集]
2009年、中国系アメリカ人の反日団体である世界抗日戦争史実維護連合会は、日本軍はアジアで3000万人の民間人を大量虐殺し、朝鮮と中国からそれぞれ約25万人ずつ合計50万人が強制連行され、性奴隷とされたと発表した(数値根拠は不明)[533]
韓国軍・アメリカ軍慰安婦[編集]
1945年の日本占領当時は日本女性55,000人であった[9]。
韓国陸軍本部が1956年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』によると韓国軍慰安婦は1952年における4小隊に限ったケースだけでも89人の慰安婦が204,560回の行為を行わされていたとされる[2][3]。総数は不明である。1955年のソウル市警察局によると米軍相手の性売買女性は61,833名であり[11]、1962年の韓国ではアメリカ兵相手の慰安婦として2万名以上が登録されていた[10][14]。
ベトナム戦争末期にはベトナムでは30万人から50万人の慰安婦がいた(Cynthia Enloeによる[534][535])[6]。アメリカ陸軍第1師団第3旅団(将兵4000名)ではベトナム女性60人が住み込みで相手した[6]。
1980年代までに100万人超の韓国女性が米軍の相手をした[14]。

慰安婦の募集方法[編集]
(※軍の関与・強制性、強制連行の有無の点については論争となっている。詳細は論点の節を参照)
1944年に、当時の朝鮮の最大手の新聞『京城日報』(7月26日付)が「慰安婦至急募集」との紹介業者の広告を掲載。300円(京城帝国大学の卒業生の初任給75円の約4倍に当たる)以上の月収と記載されていた。また 朝鮮総督府の機関紙『毎日新報』(10月27日付)の「軍慰安婦急募集」との紹介業者の広告では行き先は部隊の慰安所であると明記されている。これらの募集の待遇が非常に好条件であることから、慰安婦が強制連行され、悲惨な生活を強いられたとする主張に疑問を投げかけられており、連絡先に朝鮮人らしき名前も見られることから、朝鮮人自体も慰安婦募集に関わっていたことが指摘されている[536]。
1992年・1993年の宮澤内閣当時の日本政府の調査報告や「河野談話」においては、「軍当局の要請を受けた慰安所の経営者が、斡旋業者に慰安婦の募集を依頼することが多かった、戦争の拡大とともに慰安婦の必要人数が高まり、業者らが甘言や脅迫等によって集めるケースが数多く、官憲等が直接これに荷担するケースもみられた[[505],1・14頁]」と報告されている。ただし、「軍ないし官憲などの公権力による強制連行」を示す資料はなかったが、総合的に判断した結果、一定の強制性があるとしたものであることが1997年の国会での政府答弁[360][361]や河野洋平元官房長官、や石原信雄元官房副長官などによって明らかにされている。
慰安婦問題の研究者秦郁彦は(女衒と呼ばれる)ブローカーが親または本人と話し合い、慰安所の業者に送ったのであり、業者は日本人と朝鮮人が半々だが、ブローカーは100パーセント朝鮮人だと語っている[537]。
海軍省のペナン島の]]潜水艦]]基地司令部の井浦祥二郎によれば、軍中央がペナン島に慰安所設置を指示し、各地の司令部が慰安所の管理をした。井浦は「わざわざ女性を戦地にまで連れてきたことをかわいそうだ」と感じ、「そのくらいならば、現地女性を慰安婦として募集した方がよかった」という旨を自著で述べている[538]。
現地への輸送[編集]
日本軍慰安婦
旧日本軍は、業者が慰安婦らを船舶等で現地に送るに際には、彼女らを特別に軍属に準じた取扱いにし、渡航申請に許可を与え、日本政府が身分証明書等の発給を行ったりした。軍の船舶や車両によって戦地に運ばれたケースも少なからずあり、現地に置き去りにされた事例もあったという[505]。1962年の国会において、厚生省(現:厚生労働省)は「慰安婦は、軍属にはなっていないが、敵襲を受けるなどの部隊の遭遇戦で亡くなった場合は戦闘参加者として準軍属の扱いをしているはず」と答弁している[539]。
吉見義明によると、地域の状況を問わず、軍の進出に伴い、兵士が存在する地域には慰安所が設置されていったため、慰安婦が前線基地に派遣される場合も多く、そのため、慰安婦が空襲や爆撃の被害を受けたこともあった[540][541]
韓国軍慰安婦
朝鮮戦争中に韓国では、ドラム缶に女性を一人ずつ押し込んでトラックに積んで前線を移動して回っていた[10]。
慰安所の管理・運営[編集]
日本国[編集]
太平洋戦争の生き残りの兵士として有名になった小野田寛郎は1940年前後に、商事会社の漢口(現・武漢)支店に勤務していた時代に、朝鮮半島では悪徳詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話をしばしば聞いたという。中国江西省南昌の「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業しており、軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒するため、鉄帽を被り、銃と剣を携えた歩哨らが、慰安所の内部まで巡察し、利用者数の記録を確認したという[35]。
安秉直ソウル大学教授によると営業者の半数が朝鮮人であるとしている[385]。
陸軍経理学校では慰安所の経営についても講義があったといわれ、陸軍経理学校を卒業した鹿内信隆は「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟 が、将校は何分、下士官は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。」[542][33]と述べている。
『産経新聞』紙上の証言として「軍の経理を担当した当時、日本人や中国・朝鮮人の売春業者から兵隊相手の売春宿をやりたいと申し入れが相次ぎ許可した。これが慰安所の始まり。それまで上層部から設置を指示されたことはなかった」(八王子市の94歳男性)、というものがある[543]。
韓国[編集]


慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われていることを報ずる東亜日報1961年1月31日付
朝鮮戦争の時代
朝鮮戦争の時代には大韓民国政府も、韓国軍と国連軍のための慰安所を運営した[13]。韓国軍は直接慰安所を経営することもあり、韓国陸軍本部は特殊慰安隊実績統計表を作成していた[2][3]。部隊長の裁量で周辺の私娼窟から女性を調達し、兵士達に補給した[10]。韓国軍によりトラックで最前線まで補給された女性達は、夜になると開店しアメリカ兵も利用したといわれる[10]。
朴正煕政権(1963年 - 1979年)
1953年に朝鮮戦争が停戦して以後も慰安所は存続し、1961年1月31日の東亜日報では、慰安婦への教養講習が伊淡支署主催で行われたことを報じている。朴正煕政権は性病を規制をする目的として、慰安婦を自治会に所属させ、身元などを正確に把握させた上で相互監視を行わせる教育と管理システムを運営し、自治会長は韓国警察や韓国公務員によって選定されていた[1]。1970年代初、アメリカ軍は韓国政府に基地村浄化事業を行うよう要求した[1]。1971年8月、吴致成内務長官が各警察署に保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じ教養を強化するように命令した[13]。
モンキーハウス
慰安婦たちの写真や個人情報などはアメリカ軍も管理しており[1]、韓国におけるアメリカ軍相手の慰安婦は性病の疑いをもたれると韓国警察によりモンキーハウスと呼ばれる窓に柵のされた施設に留置され強制的に薬を完治するまで飲まされることとなっていた[56]。また、性病に罹患した女性達は治るまでの間は強制的に拘置所に隔離されていたと在韓米軍の性病報告に記録されている[12]。また、病気ではないと証明された場合には犬のようにタグを付けることを強制された[284]。
韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は容易に行為の相手から見分けがつき易いように番号札をつけることを強制されていた[56]。
韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は韓国政府から特別な講義をしばしば受け、「真の愛国者」や「ドルを稼ぐ妖精」と称賛されていた[284]。また、韓国政府は女性達に韓国を助けるために来た兵士達が満足するように清潔にしなさいと指導した[284]。
全斗煥政権(1980年 - 1988年)
全斗煥大統領による基地コミュニティー浄化キャンペーンが実施されると売春婦とアメリカ兵との関係の発展を目指して、エチケット講義が行われるとともに頻繁に薬物療法が行われるようになった[284]。医師免許を持たない医者達の前で脚を広げることを強制され、抗生物質を打たれて死にいたる女性もいた[284][1]。女性達が逆らうと医者達に暴力を振るわれて監禁されることとなっていた[284]。
在韓米軍慰安婦問題
米兵との性的行為を1960年代から1980年代にわたり強制されたとして、当時の韓国政府指導者・韓国政府・米軍を、韓国の元慰安婦のグループが、アメリカの裁判所に告発、損害賠償を求める訴訟を起こした。在韓米軍慰安婦問題参照。
慰安婦の生活状況[編集]
日本軍慰安婦
慰安婦を求める兵士の数と比較して、慰安婦の数は不足気味であった。東京のある慰安所では和服女性150人をそろえてアメリカ兵を受け入れると初日に47人もの相手をした女性もいた[9]。日本軍の元慰安婦らの証言によれば、戦況次第では一日に十人以上の兵士との性行為に従事する場合も少なくなかった。そのような場合に慰安婦に拒否する自由はほとんど与えられておらず、体調にかかわらず兵士の相手をしなければならなかった[544]。吉見義明は、慰安婦の状況を「1日数10人などの肉体的に過酷な条件のため、陰部が腫れ上がり、針も通らないようになった」事がたびたび(年数回)あったと書いている[540]。
慰安婦との性行為の際には、主として軍が作成した慰安所規程において、避妊具(当時は、「サック」と呼ばれた)の使用が義務づけられていた[[505]4巻,p293]。ただし、元慰安婦らの中には、慰安所での性行為によって妊娠したと訴えている者も存在する。
慰安婦の多くは故郷から戦地へと派遣されていた場合が多く、そのような場合は、事実上慰安所から逃亡することはほぼ不可能であった。許可制により外出が認められていた場合はあるが(文玉珠は主計将校と偽の結婚の約束をして、結婚前の準備のため家に帰るとして中国の慰安所から朝鮮の家までの通行許可証を得ることで慰安所を脱走したという[545])、多くの場合、軍機密や安全等の必要から制限を課されていた。また、自らだけの意思で慰安婦を辞めることは事実上不可能であり、辞めることを許されたのは、妊娠後期になったり、精神的疾病を発症して、慰安婦としての任務を遂行できなくなった場合に限られていたのがほとんどであったとする吉見義明の見解もある[540]。
ビルマ中部のマンダレーでは経営者の許可証があれば外出でき、セレベス島では原住民慰安婦ばかりで外出自由であったという[要出典]。
米国戦争情報局心理作戦班報告によれば、ビルマのミートキーナーの慰安婦らは、前借金を返済した女性に帰省を命じ、何人かの女性は朝鮮へ帰省した。また、同報告によれば慰安婦らは個室を与えられ、接客を断る自由もあり、週一日は検診のため休日であり、生活は豊かで町へ買い物に行くことも許され、娯楽やスポーツやパーティを楽しみ、また兵士と結婚した慰安婦もいた[546]。
1938年から終戦まで中国北部で兵士として服務し、戦後作家になった伊藤桂一は、慰安婦達の相談係りのような役目もしたといい、自身が見た慰安婦については「借金を返済し、結婚資金を貯え、結婚の際の家具衣装箱も充分用意していた。」として生活は「かなり恵まれていた」と述べている[547]。
日本軍慰安婦の契約期間は前金の額に応じて契約期間は6ヵ月から1年間であった[546]。李榮薫は契約期間は通常2年間であったとし、ただし船便が途絶える場合などもあり、相当数の慰安婦は2年間というわけには行かなかったと述べている[10]。
韓国軍・米軍慰安婦
韓国におけるアメリカ軍相手の女性達は自殺や中毒により死亡することもあった[284]。1957年7月21日付け東亜日報で、アメリカ軍慰安婦がわが身を悲観して自殺したと報道される[8]。1959年7月30日付け東亜日報で、慰安婦が悲觀自殺したと報道される[8]。
1959年9月の韓国保健社会省の性病保菌実態の報告では、接待婦の15.6%、私娼の11.7%、慰安婦の4.5%、ダンサーの4.4%が罹患していた[10]。
1959年10月18日付け東亜日報で、慰安婦の66%が保菌者であると報道される[8]。
報酬・料金[編集]
日本軍慰安婦
日本軍慰安婦が報酬を得ていたことを示すものとしては以下のものがある。
当時の新聞『京城日報』1944年7月26日の慰安婦募集広告では「月収300円以上、前借金3000円可」と記されていた[548]。
米国戦争情報局心理作戦班報告によれば、北ビルマのミートキーナの慰安所の慰安婦たちは月平均で1500円の総収益を上げ、750円を前借金の返済にあてた。同報告によれば稼ぎは月に1000 - 2000円、年季は半年から一年で一部は帰還した者もおり、他方、兵士の当時の月給は15円 - 25円であった[549][550]。
中国漢口の約三十三万人と全兵士の金銭出納帳の調査では、三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が慰安所への支出で、ある日本人慰安婦は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」と語った[35]。
吉原で10年間、娼婦をしていた高安やえは、内地(日本)で商売を始めるために、10倍稼げるという理由でラバウルで慰安婦となったといい「一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している[551]。
料金体系
李榮薫によれば、日本軍相手の慰安婦の利用料金は兵士と将校には区別があったが、兵士はおおむね1円から2円であった[10][552]。当時の兵士の月給は7円から10円であった[10]。売上金は慰安婦と業者で折半されたが、前借金が多すぎたり、悪徳業者の場合は、首尾よく金を稼ぐことができない場合もあった[10]。
米国戦争情報局心理作戦班報告によれば中部ビルマにおける平均的な料金体系は、兵士が1円50銭、下士官は3円、将校は5円、将校は20円で宿泊も可能だった。
マニラ慰安所では、慰安婦は通常スペイン人とフィリピン人の混血で、利用料金は10〜20円、日本人・朝鮮人女性は2〜3円」だった[553][554]:487 [499]。
スマラン事件(白馬事件)の尋問調書によれば、何人かの女性は報酬を断ったが、受け取った女性はそのお金で自由時間を得ることができた。「将校倶楽部」では、一晩に一人の男性の相手にし、男性が料金として支払った4ギルダーのうち、1ギルダー1セントを受け取り、そのお金で食べ物や衛生用品を購入したとされ、「慰安所日の丸」では、一時間1ギルダー50セントの料金のうち、45セントを受け取ったと慰安婦が証言している[555]。
からゆきさんの場合[556]、北川サキは10歳で売られ、女衒は前借り300円、渡航費用と食事代と利息で2,000円と称したという[556]。大正中期から昭和前期のボルネオでは、一人2円のうち娼婦の取り分は1/2、その内で借金返済分が1/4、残り1/4から着物・衣装などの雑費10円を出すのに、月20人の客を取る必要があった。「返す気になってせっせと働けば、そっでも毎月百円ぐらいずつは返せた」 といい、それは最少で月110人に相当する。(なお、フィリピン政府衛生局での検査の場合、週一回の淋病検査、月1回の梅毒検査を合わせると、その雑費の二倍が娼婦負担にさせられていた。)料金は泊まり無しで2円。客の一人あたりの時間は、3分か5分、それよりかかるときは割り増し料金の規定だった(接待時間ではなく、性交労働時間だったと思われる)。港に船が入ったときは娼館は満員となり、一晩に30人の客を取った時もあった。現地人を客にすることは一般に好まれず、ある程度接客拒否ができたようである。しかし、月に一度は死にたくなると感想を語り、休みたくても休みはなかったという。日本軍を相手とした場合は兵士が支払った料金の半分以上が女性の手取りとなり、残りが業者のものとなった[6]。
慰安婦の貯金
元慰安婦の文玉珠は、1992年、慰安婦時代の2年半の間に貯めた郵便貯金2万6145円の返還請求訴訟を行ったが、日韓基本条約で解決済みとされ敗訴した。訴状によると、26,245円の貯金から5,000円を朝鮮の実家に送っており[557][10]、また「千円もあれば故郷の大邱に小さな家が一軒買えた」という[558]。{{要出典範囲|上野千鶴子は、文玉珠の貯金は性交労働の代償でなく、軍人からのお駄賃をため込んだものとした[559]。
中国漢口の日本人女性130名と朝鮮人女性150名が在籍していた慰安所では、ある朝鮮人慰安婦がすでに3万円を貯めたが5万円になったら京城で小料理屋をもつことを夢見ているとの彼女の話が司令官に伝わり「なんとたいしたオナゴであるか」として表彰された[10]。
当時の物価
当時の陸軍大将の俸給は年に約6600円、二等兵の給料は年間72円であった[35]。1943年7月時点では二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23〜30円で、戦地手当を含めてもそれらの倍額で、慰安婦の収入の10分の1または100分の1であった[560]。中将の年俸は5800円程度であった[561]。当時の貨幣価値を企業物価指数で計算すると1931年時点での100円は現在に換算すると88万8903円、1939年では45万3547円、1942年では34万7751円となり[562]、3万円の貯金とは現在での約1億3606万円となる[563]。朴一石が経営していた慰安所「カフェ・アジア」は1937年で資本金2000円で開業し、1940年には資本金6万円となっていた[564]。
また、日本の大正中期から昭和の第二次大戦前までの物価はほぼ同じレベルにあり、のちに慰安婦が増えた時期と同水準だったといわれる[565]。
慰安婦に対する給与の支払いは、多くは軍票という政府紙幣の一種によってなされていた。戦地において軍票が大量発行されたため、軍票の価値が暴落しており、慰安婦が受け取る軍票の額面は膨れあがったケースがあった。吉見義明は「慰安所の開設にあたって最大の問題は、軍票の価値が暴落し、兵たちが受け取る毎月の棒給の中から支払う軍票では、慰安婦たちの生活が成り立たないということであった。」と推定している[540]。また、戦後この軍票に対する日本政府の支払義務が免除されたため、軍票が紙くず同然となり[566]、払戻しを受けられなくなったケースもあった。
仲介業者による中間搾取や不払い
吉見義明や尹明淑によれば、現在証言の得られる元慰安婦のほとんどは、慰安婦の直接の雇用主である業者が、慰安婦から「前借金」「衣装代」「食料代」等の名目で給与を天引きしており、慰安婦の手元に渡された給料はほんのわずかというケースが少なくなかった[567]。
李榮薫はこうした業者は女衒であったとしている[10]。秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している[566]。
また、1930年代の朝鮮では人身売買業者が女性や少女を恐喝や嘘をついて勧誘したり、誘拐し、満州や中国に売却する事件が頻発していた(#1930年代の植民地朝鮮における人身売買・誘拐を参照)。
韓国軍・米軍慰安婦
1962年の韓国の相場では、ショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルであった[10]。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいた[10]。大韓民国大法院判決文によれば、1964年当時に慰安婦が月5,000大韓民国ウォンの収入を得ていた[51]。
ベトナム戦争時のベトナムでは、料金は500ピアストル(2ドル)で、女性の手取りは200ピアストル(0.8ドル)で、残りは業者のものとなった[6]。
連合国軍占領下の日本では、料金は8セント(0.08ドル)で1日に47人のアメリカ人の相手をした女性の手取りは2ドルであった[9]。
[目次へ移動する]
兵士との関係[編集]


韓国坡州における慰安婦殺害事件(東亜日報1957年5月1日付)
日本軍慰安婦
熊本県の活動家田中信幸は、日本陸軍第6師団の分隊長であった父親が、慰安所に行くことを「楽しい外出」、日本人・朝鮮人・中国人女性を慰安婦として扱うことを「日本、中国、朝鮮を征伐する」と日記に記していたことを、韓国挺身隊問題対策協議会に報告した[568]。
近衛師団通信隊員総山孝雄によれば、シンガポール陥落の時、イギリス兵相手だった売春婦たちが自発的に慰安婦に志願したが、予想もしない人数を処理するという彼女らには未経験の種類の過酷な労働だったので、一人が4、5人目でもうできないと言い出し、当番兵が打ち切りを宣言したところ、戦闘が終わった後で列を成して待っていた兵士達が騒ぎだし、怯えた当番兵は、ベッドに縛り付けてそのまま兵士の相手をさせようとしたこともあったという(その次の順番に当たって中に入った兵士(目撃者)が驚いて逃げ帰ったので、その後の情報はない)[569]。
元兵士の伊藤桂一は慰安婦らは「ときには性具のように取扱われはしても、そこにはやはり連帯感のつながりがあった。だから、売りものに買いもの、という関係だけではない、戦場でなければ到底持ち得ない、感動のみなぎる劇的な交渉も、しばしば持ち得たのである」と述べ、当時の兵士と慰安婦たちの人間的な交流があったエピソードを紹介している[547]。
吉見義明は、兵士から見れば慰安婦は血なまぐさい戦場で、身近の唯一の女性であり、恋愛を含めた心の交流があったと話す場合が多いが、元慰安婦の証言からはそうした状況はまったく違って述べられているという。慰安婦側から見れば、愛想良く対応しないと殴られる、兵士の求めるような形で応対する事で少しでも楽に「仕事」を済ましたい、将校と仲良くなることで少しでも待遇をよくしてもらいたい、という動機であるとしている[541]。
1944年の米国戦争情報局心理作戦班報告によればビルマのミートキーナーの慰安所では、日本の軍人からの求婚もあり、実際に結婚したもケースも報告されている[546]。このほか、酒に酔った兵に脅された例、逆に刀を刺してしまった例、無理心中させられそうになった例、慰安婦に頼まれて自由にする金を横領した主計将校など様々な逸話がある[要ページ番号][505]。
韓国軍・米軍慰安婦
韓国におけるアメリカ軍への売春を強制されていた女性達はアメリカ兵に残忍に殺害されることや、アメリカ兵によるとされる放火で命を落とすこともあった[284]。
[目次へ移動する]
日本軍慰安婦問題の論点[編集]

韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言[編集]
「女子挺身隊」を参照
当時の日本で使用された「挺身隊」と「慰安婦」のことばはそれぞれ、まったく異なるものである[46]。「挺身隊」は主に工場などでの勤労労働に従事する女性を指し、「慰安婦」は戦地内地等での公娼・売春婦を意味していた[570]。しかし、戦中当時にも朝鮮社会ではすでに両者が混同されてパニックに陥っていた家族もあった。
大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1944年8月、日本内地において日本人女性を工場などへ強制動員する「女子挺身勤労令」が出され、これは12歳から40歳までの未婚女子が対象であった[571]。同時に学徒勤労令も出され、中等学校二年以上の学徒も軍需工場などで勤労した[48]。男子は1939年の国民徴用令で強制動員されていたが、朝鮮では実施を遅らせて民間企業による自由募集、1942年1月からは官斡旋(朝鮮労務協会が実務)となり、1944年9月になって徴用令が発動された[48]。いわゆる「強制連行」はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す[48]。
しかし、朝鮮半島の女子についてはこのような日本内地における徴用令も女子挺身勤労令も発令されなかった[48]が、斡旋によって挺身隊が日本内地へ向かった事例もあったため、挺身隊と慰安婦が混同され、「挺身隊に動員されると慰安婦にされる」との流言(デマ)が流布した[572]。デマによってパニック状態[48]になった朝鮮の未婚女性や親は、学校を中退させたり、結婚することで徴用を逃れようとした[46]。例えば、韓国で挺身隊=慰安婦という認識を広めた韓国挺身隊問題対策協議会初代代表の尹貞玉(1925年生)も父親の忠告に従って1943年4月に入学したのを同年9月に退学している[46]。
そのようなデマについて政府も認識しており、1944年6月27日の内務省文書では
勤労報国隊の出動をも斉しく徴用なりとし、一般労務募集に対しても忌避逃走し、或は不正暴行の挙に出ずるものあるのみならず、未婚女子の徴用は必至にして、中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり、此等悪質なる流言と相俟って、労務事情は今後益々困難に赴くものと予想せらる。 - 内務大臣請議「朝鮮総督府部内臨時職員設置制中改正の件」1944年6月27日付

と「荒唐無稽なる」「悪質な流言」と記載があり、日本政府はそうしたデマを民族主義者による反日謀略とみなしていた可能性も指摘されている[46]。1944年10月には朝鮮総督府が「国民徴用の解説」で女子挺身勤労令を発動しないと答弁した[48]。
尹明淑は、労働力として国民登録する朝鮮の女子はあまりに少なかったため学校教師による勧誘が進められたが、内地に動員されたことが多かったためデマの元になったとしている[573]。実際、官斡旋による女子挺身隊動員は小学校や女学校の教師が指名勧誘する事例が多かった[48]。日本内地へ動員された女子挺身隊の総数は一万人と推計され[574]、確実な記録では1944年6月頃から日本の富山の不二越工場に1090人(そのうち約420人は1945年7月に朝鮮の沙里工場へ移動)[574]、名古屋の三菱航空機道徳工場へ約300人、東京麻糸紡績沼津工場へ約100人が学校の教師に引率されて派遣され、終戦直後に帰国している[574](この記録の合計は1490人)。また名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟の訴状では、日本語の上手な低年齢世代が内地に行くことが多かったが、工場では夜学の夢が破れ、軍隊式のひどい扱いを受けたという不満を語る人もいる[575]。
「処女・少女の強制連行」言説[編集]
日本内地での工場勤労を意味する女子挺身隊と慰安婦を混同した認識は戦後も続き、在日朝鮮人作家の金一勉は1976年の著書『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』で日本軍慰安婦について
地上のあらゆるエロ小説よりも奇怪にしてスリルに富み、残酷かつ野蛮なセックス処理の女たち[576]

と表現したあとで、
しかもその女たちはその戦争中、お国のためと称して特志看護婦とか軍要員とか女子工員とかの名目で強制的に集められた十七歳から二十歳までの処女ばかりであった[577]。

と記しており、このような「日本帝國」による「国家的大詐欺行為」によって集められた「処女」は推定20万人であったとしている[578]。なおこの金の本はクマラスワミ報告書における事実認定のほぼすべての出典として提示されているジョージ・ヒックスの『性奴隷』でも参照されており、歴史的事実の根拠として提示されている[579]。
「小学生慰安婦」の言説
「挺身隊」と「慰安婦」の混同、および「少女・処女」が「強制連行」されたとする認識は韓国(および日本での慰安婦問題活動家)の間では1990年代になっても存続し、1992年1月の宮沢主張の訪韓時に韓国の新聞は「小学生までが挺身隊にされ、慰安婦にされた」と、あたかも女子小学生が慰安婦にされたかのような報道を繰り返した[574]。東亜日報は1992年1月14日に「挺身隊、小学生まで引っ張っていった」、朝鮮日報は同1月15日に「日本、小学生も挺身隊に徴発」との見だしで報道した[574]。東亜日報は1992年1月15日の社説「十二歳の挺身隊員」では次のように報道した[580]。
本当に天と人とが共に憤怒する日帝の蛮行だった。人面獣心であるとか、いくら軍国主義政府が戦争を遂行するためだったとしても、このようなまでに非人道的残酷行為を敢えて行うことができたのかといいたい。(中略)
十二歳の小学生まで動員、戦場で性的玩具にして踏みにじったという報道に再び沸き上がってくる憤怒を抑えがたい。(中略)
これまで十五歳の少女が挺身隊に動員されたことは知られていた。しかし、十二歳の幼い子供まで連行されたことは初めて明らかにされたことだ。(中略)
勤労挺身隊という名前で動員された後、彼女らを従軍慰安所に回した事実が様々な人の証言で立証されている…(中略)
このように何もわからず父母のもとを離れ挺身隊に連行された少女らの数はわからない。泣き叫ぶ女性をなぐりつけ乳飲み子を腕から奪って赤ん坊の母親を連行したこともあった。このように動員された従軍慰安婦が八万〜二十万と推算される。

--東亜日報1992年1月15日社説「十二歳の挺身隊員」

西岡力の調査によれば、1992年1月14日の「小学生挺身隊」記事を初めて執筆したのは連合通信の金溶洙記者であった[581]。西岡が12歳の少女が慰安婦になったという事実はないのになぜ報道したのかと質問すると、金記者は、富山県に動員された6人の児童が慰安所でなく工場に動員されたことは事実であるとして
6人の児童が慰安婦でなかったことは知っていましたが、まず勤労挺身隊として動員し、その後慰安婦にさせた例があるという話も韓国国内ではいわれていますので、この6人以外で小学生として慰安婦にさせられた者もいるかもしれないと考え、敢えて<勤労挺身隊であって慰安婦ではない>ということは強調しないで記事を書きました。

と弁解した[582]。この金溶洙記者による弁解で「小学生慰安婦」の存在が証明されたわけではないことが明らかになり[583]、またその後、当時挺身隊だった女性が名乗りでて、新聞報道が誤報であったことが判明する[574]。しかし、その後も「小学生慰安婦」について報道機関は修正することはなく「小学生や乳飲み子の母親までを連行して性の玩具にした」というイメージは韓国社会のなかで繰り返しテレビドラマなどで伝えられている[584]。2010年代の米国や韓国などでの慰安婦の碑でも「少女」像が設置され、成人女性ではない「少女」のイメージが強調されている[585]。
強制連行の有無[編集]
「強制連行」も参照
実際に強制性が存在したかについては、いわゆる強制連行の有無や、売春が強制下で行われたのではないかなどを含めて様々な議論がある。また、売春を強要させた主体が日本政府(軍)だったのか、被害者の両親と金銭取引を行い、本人の意思を無視して連れ去った民間業者だったのか、朝鮮の事例、南方戦線での事例などについて議論がある。
朝鮮における慰安婦の強制連行[編集]
朝鮮半島では国民徴用令に基づいた挺身隊(女子の動員は1943年9月から)から、植民地女性を中心に慰安婦にさせられた場合があったとされているが、当時の朝鮮では「挺身隊」を「慰安婦」と混同するデマが流布しており[586]、また慰安婦の証言以外には「慰安婦の強制連行」の客観的証拠は見つかっておらず、朝鮮半島における命令書等の公文書は現在までに発見されていない。
ソウル大学教授安秉直は挺対協と共同で3年間に渡って調査をしたが、強制連行を示す客観的資料は見つからなかったとした[385]。また韓国陸軍元大佐の池萬元も、慰安婦は大半が厳しい経済事情のため自ら性売買を望んだ人としている[587]。
クマワスラミ報告書も「慰安婦の募集に関する公文書はなく、証拠は元慰安婦の証言だけ」としている[499]。
日本政府による慰安婦調査を実施した平林博内閣外政審議室室長や石原信雄官房副長官は、軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示す証拠も証言もなかったと国会答弁[360][361]や新聞[359]、雑誌[588]等で語っている。また、河野談話では朝鮮人慰安婦に触れた段落では「官憲等」の加担については述べられていないと西岡力は指摘している[589]。
吉見義明は、吉田証言が虚偽を含むことが判明して以降、奴隷狩りのようなことは“狭義”の強制連行であるが、詐欺などを含む「“広義”の強制連行」も問題であると主張するようになった[554]。1997年に吉見は「『官憲による奴隷狩りのような連行』を裏付ける文書は今のところ出ていない[590]」「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認め[591]、「官憲による奴隷狩りのような連行が朝鮮・台湾であったことは確認されていない」と明言した[592]。しかし、フィリピン、中国、インドネシアではそうした連行があったと主張している[592]。また、東京大学教授の和田春樹も1997年3月5日に「官憲による直接的強制」を立証する文書資料はまだ発見されていないと書いた[593][594]。朝日新聞は1997年3月31日の社説で、「旧日本軍の従軍慰安婦をめぐって、日本の責任を否定しようとする動きが続いている。これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ」と主張した。
秦郁彦は実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と吉見義明の「広義の強制性」論に異議を唱えている[595]。また、「強制連行」については、志願者が多数いたので「強制連行」する必要性はなかったとし、「強制連行」されたという証言は元慰安婦の証言のみで、第三者の目撃証言はこれまで一切なく、2000年の女性国際戦犯法廷においても60数人の元慰安婦の来歴には誰が慰安所に強制連行したかの記載がないことについて「連行事情が食いちがってはまずいと考えたのか、女性国際戦犯法廷の報告書は参加被害者の略歴欄から誰が騙したか、連行したかの主語を削り落してしまった」と指摘している[537][6]。 小林よしのりは吉見義明が証拠が無いとわかっても自説の訂正や謝罪はせず、「広義の強制性」を持ち出してきたことを「論点のすり替え」として批判した[596]。
呉善花は「生活者の連帯意識も民族意識や民族愛も強い当時の朝鮮人が、娘たちが強制的に連れて行かれるのを見て黙っているわけがなく、そんな世界で女狩りなんてできるはずがない」 という証言によって、自身が韓国にいた間、「慰安婦」の話を耳にしたことがなかった意味がようやくわかったと述べている[597]。
ほか、千田夏光や吉見義明らは「強制連行」を指示する資料が見つからないのは旧日本軍が資料を焼却処分したためであり、また、未公開資料もあると推測している。河野洋平も2007年3月、「従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は処分されていたと推定もできる」と発言した[598]が、確実な資料が発見されたわけではなく、推測の域にとどまっている[599]。
2006年9月13日に米上院外交委員会に提出された日本軍慰安婦問題に関し日本政府に謝罪を求める決議案 (H.Res.759) は「日本政府は性奴隷にする目的で慰安婦を組織的に誘拐、隷属させた」としており、2007年1月31日に提出されたアメリカ合衆国下院121号決議案は「日本政府は「帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した」としている。
インドネシア、フィリピンにおける慰安婦の強制連行[編集]
インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(「白馬事件」)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに 、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘[600]がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある[601]。
フィリピンのアンヘレス市に当時いたダニエル・H・ディソンは、日本兵用の売春宿は存在したが、一般に強制性はなく、日本兵による強姦はあったがこれは慰安婦問題とは異なると証言している[602]。
「公娼」か「性奴隷」か[編集]
「性奴隷」言説[編集]
日本軍慰安所における慰安婦を「性奴隷」と表現する潮流がある。これについては日本弁護士連合会および日弁連海外調査特別委員の戸塚悦郎弁護士を中心に1992年頃から「慰安婦」という言葉でなく「Sex Slaves(性奴隷)」という表記の方が正しいとして国連でロビー活動を続けた結果、1993年以降、国連で浸透していったことが明らかになっており、日弁連も公式サイトでその旨を明記している[603](#国連などでの呼称および#宮沢首相による謝罪から「河野談話」までを参照)。以降、1996年のクマラスワミ報告、1998年のマクドゥーガル報告書でも「性奴隷」と明記されている。
朝鮮人女性を奴隷狩りのように狩ったと加害証言してきた吉田清治が1996年5月に自らの証言を虚偽(フィクション)であることを週刊新潮で告白して以降[604][605]、慰安婦強制連行問題を追求してきた吉見義明も1997年には朝鮮で官憲による奴隷狩りを行ったとする証拠は確認されていないと明言した[592](#強制連行の有無参照)。
中国帰還者連絡会会員の湯浅謙も1998年に季刊『中帰連』に発表した文章において、戦時中、湯浅が中国の山西省南部の陸軍病院の軍医として従軍し、朝鮮人慰安婦の性病検査なども行なったとして、「当時の軍人にとって慰安婦は料金も払うし愛想もよかったので「公娼」に見えたが、植民地支配下にあって、彼女たちは抵抗することも「強制され連れて来られた」と異議を唱えることもできない状況下にあったので、「性的奴隷」であった旨を語っている[606]。
日本の戦争犯罪・戦争責任を追及しているNGO「日本の戦争責任資料センター」は2007年2月の声明において「『日本軍慰安婦』制度は、慰安婦たちに居住の自由、廃業の自由、外出の自由や慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった」「故郷から遠く離れた占領地から逃亡することは不可能だった」などの理由から、「公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、『日本軍慰安婦』制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった」旨を主張している[607]。
2007年7月に採択されたアメリカ合衆国下院121号決議では「強制軍売春という『慰安婦制度』は“残忍さという点で前例のないもの”と認識されており、“20世紀における最大の人身売買の一つ”である」と主張した(#安倍政権と米国下院決議も参照)。
「公娼」言説[編集]
「公娼」も参照
他方、日本軍慰安婦制度を「公娼」制度として認識する歴史学者もいる。1997年に発表した研究において歴史学者の藤目ゆきは、日本では前近代より公娼制度があったが、近代日本の公娼制度はヨーロッパの近代公娼制度をモデルとして再編成されたものと指摘したうえで[608]、
日本における従来の公娼制度と廃娼運動の研究は、一般に、近代日本の公娼制度を前近代の公娼制度からの延長線上に把握し、これを特殊日本的で前近代的な制度として認識してきた。「欧米の文明国」には公娼制度は存在しないと信じ込み、近代日本の公娼制度の存在をもっぱら日本の後進性・前近代性の表出と錯覚するのである[609]。

と指摘し、「日本にのみ公娼・慰安所があった」とする見方について批判し、各国における近代公娼制度の比較研究を展開した[610]。また、秦郁彦は、慰安婦を「戦前の日本に定着していた公娼制度の戦地版と位置づけるべき」と主張している[611]。このほか、山下英愛[29]、川田文子[279]、宋連玉[228]、藤永壮[224]、眞杉侑里[612]らも公娼制という概念によって研究をしている。ただし、公娼制の意味については論者によって異なるところもあり、統一見解がだされているわけではない[612]。
評論家金完燮は2004年に「軍隊という血気さかんな若者の集団にどうやって性欲を発散させるかは、どの国の軍隊にとっても重要な問題であり、“性奴隷”というのは反日キャンペーンのために発明された用語だ」と批判した[613]。
商社員として約三年半の間、中国漢口の慰安所について見聞きして来た小野田寛郎は2005年の文章で、慰安婦制度の背景について「兵士も、やはり(女性を求める)若い人間であり、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在した」とし、「『従軍慰安婦』なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。」と述べている[35]。
産経新聞は2007年5月18日記事で、米国戦争情報局心理作戦班報告には「慰安婦の雇用条件や契約条件が明記されており、慰安婦の女性が一定額の借金を返せば解放されるという条項があるという点で、当時の米軍当局が日本軍の“強制徴用”や“性奴隷”とは違った認識を持っていた証拠になる」と指摘している[614]。
その他、歴史学者の倉橋正直は2010年の著書[615] で日本軍慰安婦には「性的奴隷型」と「売春婦型」の2つのタイプがあったとして、画一的な「従軍慰安婦」解釈を批判している。また倉橋は「近代日本における公娼制は検黴制などの近代的要素と前借制、楼主への人身の隷属などの封建的要素が複合している」と書いている[616][617]。
妓生と公娼[編集]
朝鮮に伝統的に存在していた妓生(キーセン)についてもこれが公娼か否かについての議論がある。
川田文子は、朝鮮には妓生、女社堂牌(ヨサダンペ)、色酒家など様々の形態があったが、特定の集娼地域で公けの管理を行う公娼制度とは異なるとした[279]。
また、金富子や梁澄子[618]、評論家の金両基[619]らは、妓生制度は売買春を制度化する公娼制度とは言えないと主張している。金両基は多くの妓生は売春とは無縁であり、漢詩などに名作を残した一牌妓生黄真伊のように文化人として認められたり、妓生の純愛を描いた『春香伝』のような文学の題材となっており[620]、70年代から90年代にかけて主に日本人旅行客の接待に使われたキーセン観光はとはまったく違うと反論した[620]。
日本統治時代の朝鮮において日本人の認識の事例としては、山地白雨による「妓生は日本の芸者と娼妓を一つにしたやうな者で、娼妓としては格が高く、芸者としては、其目的に添はぬ処がある」「其最後の目的は、枕席に侍して纏綿の情をそそる処にある」という1922年の記録[621]や、柳建寺土左衛門(正木準章)による「妓生とは朝鮮人芸者のことで京都芸者のようだ」「蝎甫(カルボ) は売春婦である」という同年の記録[622]、1934年の京城観光協会『朝鮮料理 宴会の栞』の「エロ方面では名物の妓生がある。妓生は朝鮮料理屋でも日本の料理屋でも呼ぶことができる。尤も一流の妓生は三、四日前から約束して置かないと仲中見られない」「猟奇的方面ではカルボと云うのがある。要するにエロ・サービスをする女である」「カルボは売笑婦」という記録があり、妓生と売春婦(カルボ)を区分して書かれていた[623]。
川村湊は「李朝以前の妓生と、近代以降のキーセンとは違うという言い方がなされる。江戸期の吉原遊郭と、現代の吉原のソープランド街が違うように。しかし、その政治的、社会的、制度的な支配−従属の構造は、本質的には同一である」とのべ[624]、現代のソウルの弥亜里88番地のミアリテキサスや清凉里 588といった私娼窟にも「性を抑圧しながら、それを文化という名前で洗練させていった妓生文化の根本にあるものはここにもある」と述べている[625]
元日本将兵の証言に関する問題点[編集]
千田夏光の著作における証言[編集]
作家千田夏光『従軍慰安婦』(1973年双葉社[626])はのちに国際問題となった「慰安婦」問題に大きな影響を与えた。しかし、高崎宗司、西岡力、加藤正夫らの検証で、千田の著書には虚偽記載があることが現在では明らかになっている。同書に掲載されている原善四郎原(元関東軍参謀)や麻生徹男(軍医)の証言・インタビューは千田による創作であったことが千田本人が明らかにしており[627]、さらに1996年には麻生軍医の親族である天児都に「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した[39]。
しかし、千田の著書は1973年に初版が発行されて以降、金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976年)などでも参照され、ジョージ・ヒックスの『性奴隷』でも日本軍慰安婦制度に関する歴史的真実・事実として参照されている。さらに国連委託のクマラスワミ報告やマクドゥーガル報告書やアメリカ下院決議でもヒックスの著作が根拠とされており、すなわち千田の著書における記述は歴史的真実を描いた原典として受容され続けた。
慰安婦の総数についての誤認と虚偽記載
千田が記した「慰安婦が20万人いた」という数値については、ソウル新聞の記述の誤認であった(本項総数・ソウル新聞報道と千田夏光による「20万」数値の解釈節を参照)。
関東軍特種演習・原善四郎証言の捏造[編集]
関東軍特種演習(関特演)において慰安婦が強制的に集められたと、千田は同書で記載している[628]。千田は、
(後方担当参謀原善四郎元少佐が)必要慰安婦の数は二万人とはじき出し、飛行機で朝鮮へ調達に出かけているのである。ここで、つまり昭和16年には、すでに朝鮮半島は慰安婦の草刈場となっていたことがわかる。実際には一万人しか集まらなかったというが草刈場になった事実は動かせない。

と書いた[629]。また、それ以降のページで原への対面インタビューが掲載されており、著者である千田の「70万人の兵隊に2万人の慰安婦が必要とはじき出した根拠というか基準は何だったのですか」という質問に対して、原が
はっきり覚えていないけど、それまでの訓練つまりシナ事変(日中戦争)の経験から算出した。
二万人と言われたが、実際に集まったのは8千人ぐらいだった。
集めた慰安婦を各部隊へ配属したところ、中には<そんなものは帝国陸軍にはいらない>と断る師団長が出たのです。ところが、二ヶ月とたぬうち、<やはり配属してくれ>と泣きついて来た

と語ったと記載された[630]。
この原証言に関する記載について1993年に加藤正夫が調査したところによれば、関特演の予算担当者だった加登川幸太郎少佐や、関東軍参謀の今岡豊中佐らは、関特演での慰安婦動員は聞いた事がないと証言した[627][631]。また、当時の満州には慰安所ではなく、民間の朝鮮人売春婦宿は多数営業していた[631]。また、千田の著作では原善四郎元少佐の肩書きは関東軍司令部第三課と書かれているが、加藤の調査によれば原元少佐は関東軍第一課、第四課には所属したことはあったが、第三課に所属した事実は確認できなかった[631]。加藤が千田夏光本人に問い詰めたところ、千田は原証言については島田俊彦の著書『関東軍』(中公新書 1965年)に載っていた話を引用したものであると答え、実際に行ったインタビューではなく、創作インタビューであったことを認めた[627][631]。その島田の著作も出典はなく、根拠を示していないものだった[632][631]。
麻生徹男軍医に関する虚偽記載[編集]
千田同書では、上海に応召された軍医の麻生徹男へのインタビューが掲載されており[633]、麻生軍医は「はじめ陸軍慰安所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。ですから待機中の婦女子というのは、内地から慰問に来た三味線を弾いたり歌をうたう芸能人だと考えてきました。」などと千田に語ったと記されている[634]。このほか、麻生軍医の作成した報告書「花柳病ノ積極的予防法」が同書では全文掲載され、千田による解釈注釈が付されている。
麻生徹男軍医の娘で女医の天児都は千田の『従軍慰安婦』に裏付けのない記述や矛盾が多いと批判して、次の点を挙げている[39]。
千田が造語した「従軍慰安婦」という用語では「従軍」に強制の意味が含まれるため、容易に「強制連行」に結びつき、「性的奴隷」を容易に想像させたため、混乱のもととなった[39]。また、千田は根拠なく強制連行と慰安所・慰安婦を結びつけた[39]。
ヨーロッパの軍も植民地に慰安婦制度を置いてたことは千田が引用している麻生報告書にも明記してあるのに、日本軍を「娼婦連れで戦った唯一の軍隊」として流布させた[39]。
1939年6月30日の軍医会同での講演で発表した麻生軍医の論文で80人の朝鮮人と20人の日本人を診察したことを根拠に、麻生軍医が「朝鮮人慰安婦強制連行」の責任者であると千田が主張した。
麻生論文では娼館(娼楼)ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書等)を提言しているのに、麻生軍医が娼婦を不可欠と主張したかのように千田が描いたこと。
千田は、麻生軍医を慰安婦制度を考案した責任者のようにほのめかしてしまったことを娘の天児に1996年4月15日消印の手紙で「これらの著述は誤りであり、今後誤解をまねく記述はしない」と謝罪した[148][39]。この千田による謝罪と自著否定発言を踏まえて天児は出版元の三一書房と講談社へその部分の改訂を要請したが、二社とも改訂しなかった[39]。天児は「慰安婦問題は千田夏光の誤りを検証せず、事実として平成3,4年頃出版した人たちが誤りを再生産して日本中に広め、それが海外へ流出して不幸な日本叩きの材料とされた事件だ」と、日本軍慰安婦問題(いわゆる「従軍慰安婦」問題)についてコメントを述べている[148][39]。
麻生徹男軍医は上海の慰安所と日本人慰安婦の写真10点を残している[39]。このうち慰安婦の写真とは、1937年12月の南京陥落前後に日本軍の行動が国際問題となったので、婦女暴行の対策として北九州地区で支度金1000円を支払って急遽集めれて上海に行った日本人女性の写真である[39]。また麻生軍医は1957年に博多の雑誌『うわさ』に証言を述べたり、1977年に毎日新聞「不許可写真集」に写真を提供したり、1986年には『戦線女人考』を出版した[39]。1989年に死去した麻生軍医の遺稿は1990年に不二出版から出された『軍医官の戦場報告意見集』(高崎隆治編)[635]に掲載されている[39]。また天児都は1993年8月に『上海から上海へ』(石風社)を[39]、2010年には『慰安婦と医療の係わりについて』を刊行している[636][637]。
その他、千田は同書で、朝鮮慰安婦に関する資料は朝鮮で「焼却されたと伝えられる」として、しかし残った資料は朝鮮総督府東京事務所にあり、敗戦後には朝鮮銀行(のちの日本債権信用銀行)の大金庫に保管されていると主張している[638]。また同書には匿名による証言として「女をやっつける兵隊ほどいわゆる強兵、強い兵隊です」という証言が紹介されている[639]
吉田清治の証言[編集]
詳細は「吉田清治 (文筆家)」を参照
慰安婦を強制連行したという加害証言は吉田清治による吉田証言が有名であった。吉田は自著で韓国の済州島で205人の女性を強制連行したと告白し、初めての、かつ今日まで唯一の加害証言として日本軍の朝鮮人女性強制連行の有力な証言として扱われてきた。しかし、済州島の済州新聞の調査や秦郁彦、中村粲、板倉由明、上杉千年らの検証によって、証言内容、経歴に虚偽や矛盾があると指摘された[549][640][641]。1993年5月に吉見義明が吉田を訪ね批判に反論するよう勧めたが、吉田は「日記を公開すれば家族に脅迫などが及ぶことになるのでできない」「回想には日時や場所を変えた場合もある」と発言したため、吉田の回想は証言としては使えないと吉見は確認した[642]。また上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)[643]も吉田証言は歴史証言としては採用できないとした。
1996年には吉田清治が週刊新潮で
まあ、本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。-週刊新潮1996年5月2/9号

と語り、自らの証言を創作(フィクション)を含むと発言した[644]。
1998年9月2日に秦郁彦は、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら……このままにしておきましょう」との返事だったという[499]。
しかし、1992年7月31日の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書でも吉田の著書を証拠として採用し、その後も修正していない[645]。また1996年の国連のクマラスワミ報告でも吉田証言は強制連行の証拠として採用されている[646]。 2006年に米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書でも「日本軍による強制連行」の有力根拠として吉田証言が明記された[647]。これは日本側の抗議を受けて2007年4月3日の改訂版報告では「吉田証言」が削除された[647]。しかし、2007年2月25日の公聴会ではこの吉田証言も証拠とされていた[647]。
元慰安婦の証言に関する問題点[編集]
元慰安婦の証言の検証と真正性[編集]
証言している慰安婦には、金学順・李容洙・姜徳景・金君子・金順徳・李玉善・鄭書云・文玉珠・黄錦周・宋神道・ジャン・ラフ・オハーン・ビクトリア・ロペス・プリシラ・バルトニコ・レメディオス・バレンシアなどおよそ80人がいる[要出典]。
韓国で初めて慰安婦であったことを名乗り出た金学順を初め、元慰安婦の証言の中に矛盾があるとして、その証言の信憑性を疑問視する指摘がこれまである[648]。慰安婦問題について日本政府を糾弾し続けてきた千田夏光も金学順証言について、親族が業者に売却したということからすると、日本軍による強制連行であったかどうかは不明確と述べている[649]。
秦郁彦は慰安婦たちの身の上話(証言)について「検証ぬきで採用するわけにいかない」としている[650]。秦はさらに「だまして連行した朝鮮人周旋人や数年間起居を共にした慰安所の経営者についてもフルネームを陳述したケースがまったくないのは不自然きわまる」と指摘している[651][652]。
元駐日韓国大使の呉在煕は1993年1月7日に「政府の調査は徹底した証拠主義だから『一方的な証言』は認定できない」として、日本政府調査で証拠が出てこなかったことに関しても「当事者の言葉だけを信じてどうして認定するのですか。それは公的な調査をする我が政府でも同じです。日本政府が故意的に強制動員についての資料を隠しているとは思いません」と記者会見で述べた[653][654]。また、呉は「真相にはきりがなく、一定の線を引かなければならない」とも述べた[654][655]。しかし、この発言が報じられると関係団体から抗議をうけたため金泳三時期大統領から謝罪を命じられ、大使職も交代となった[656]。なお呉在煕は1992年1月の宮沢訪韓の際の韓国政府内会議でも「トップ会談では慰安婦問題を出すべきではない」と進言したが、大統領府は慰安婦問題を積極的に持ち出すことで対日貿易赤字について日本側の譲歩を引き出せると反論した[657][658]。
ほかにフェミニズム研究者の上野千鶴子は「<善意>のインタビュアーたちは、自分が聞きたい物語を聞き出すように、語りの図式を変形するという権力を、その聞き取りの現場において行使している」として聞き取り調査のあり方を批判している[659]。
小室直樹は、慰安婦問題の核心は挙証責任(証明責任)にあると指摘している[660]。刑事裁判および民事裁判において証明責任は原告(検察)側にあり、検事は合法的に被告が有罪であることを完全に証明しなくてはならない[660]。証明責任のない被告はアリバイを証明する必要もない[660]と指摘したうえで、慰安婦問題について被告は日本政府であり、原告を日本や韓国の運動団体とすれば、証明責任は運動側にあると主張した[660]。また推定無罪原則によって、合理的な疑いを入れないまでに立証されない場合は被告人は無罪となる[661]。さらに小室は国際法上、国家が「謝罪」するということは国家責任を負うことを意味し、賠償に応ずることを意味すると指摘し、首相や外相が「可哀想なひとたちだから」という理由だけでひとたび謝罪すれば挙証責任を日本が負わされることになるとして「謝罪外交」を強く批判している[660]。
中国海南島戦時性暴力被害裁判の支援団体ハイナンNET[662]による台湾元慰安婦の調査報告や石田米子・内田知行ら[663]によれば、最近(2004年時点)の調査では1人の元慰安婦に数時間のインタビューを数回行い、日時・場所などについては他の資料とつき合わせて確認しており、研究者は証言の信頼性を確認しながら調査を行っているという。ただし、石田・内田らは1990年代の元慰安婦証言の批判的検証を行なっているわけではない。
他方、「被害者の証言を疑い、歴史学者や政府がその真偽を検討して判定しようとすること自体が被害者に対する抑圧であり、認められない」という主張がある[664]。東京大学教授で国際法学者の大久保昭はそのような主張を「被害者の聖化にほかならず、実際的意義を欠く」として、「『自分は慰安婦だった』と主張する人のなかに偽ってそう称する人が含まれることは、人間性の現実を受け入れるかぎり否定できない」と指摘している。[664]。また、「真偽の判定にあたって被害者(と主張する人)に最大の配慮をすべきことは当然だが、個人への償いは、被害者を認定するという作業を経なければならない。その際、『自分は慰安婦だった』と主張する人のなかに虚偽の主張者が含まれる可能性がある以上、すべての人を元慰安婦と認定することはできない。主張の真実性を認定する基準と手続きをつくらなければならない」と提言した[664]。
1991年当時NHK職員だった池田信夫は番組制作のため、韓国で数十人の強制連行されたという関係者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかったという[363]。
安秉直による検証調査[編集]
ソウル大学名誉教授安秉直(アン・ビョンジク)を代表とする「挺身隊研究会」は韓国挺身隊問題対策協議会と共同で1992年7月から12月にかけて慰安婦と名乗り出たうちの生存者55人中約40人に聞き取り調査を行なった[665]。一人あたり5、6回以上の長時間の面接調査、記録資料との確認、スタッフは報告書を3回以上輪読、その後の再面談を経てまとめられた。調査の結果は半数以上が「意図的に事実を歪曲していると感じられる」などの理由から脱落し、最終的に証言集に掲載できたのは19人であった[666]。この調査報告書では強制連行は詐欺(主)を含めて大部分だとしている[525] p26p27)。安秉直は「歴史学的に検証に堪える緻密な調査をすべきという私の考えに運動の論理が対立した」と挺対協との対立について回想し、証言集を発表してからは研究会を離れたとしている[667]。調査は1993年2月に韓国で挺対協・挺身隊研究会編『証言集1 強制で連れて行かれた朝鮮人慰安婦たち』として刊行された[668]。
現代朝鮮研究者の西岡力は安秉直調査による証言集に掲載された19人のうち、官憲等による「強制連行」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人が語ったのは日本内地の富山県と釜山の「慰安所」であった[669]。しかしいずれも戦地ではなく、現地には公娼にいた遊郭があったため、軍がわざわざ強制連行する必然性がなく、信ぴょう性がないとした[669]。残り二人は金学順と文玉珠であり、文玉珠は当時2万6145円を貯金していた(当時の3万円は現在での約1億3606万[670])慰安婦であるが、高木弁護士の作成した訴状ではビルマの慰安所に連行されたと証言しているのに、安秉直教授らの調査ではビルマの前に満州に連行されたと異なる証言をしたが、訴状作成の時点でなぜ満州への連行を陳述しなかったのか、その合理的理由が不明であり、信ぴょう性にかけると西岡は指摘している[671]。また両名共、日本政府を訴えた裁判の訴状では元「キーセン」であったと自ら認めていると西岡が『文藝春秋』1992年4月号に発表した「慰安婦問題とは何だったのか」(以下、西岡論文)で指摘した[672][538][673]ところ、西岡の指摘後、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」とそれまでの証言を変えた[672][674]。金学順は1991年12月の訴状作成の時点では「養父に連れられて中国に渡った」と証言していたのを、1992年7月からの安秉直教授らの調査では「北京で日本軍人に暴力的に連行された」と証言を変更しており[675]、西岡は、裁判に有利なことを訴状で意図的に隠すとは思えず、こうした証言の変化は西岡論文での指摘を受けて付け加えたものとみるのが自然であると主張した[675]。また、信ぴょう性のある証言を行った日本軍に強制連行された朝鮮人慰安婦は一人もいなくなるとしている[675]。
安秉直ソウル大学名誉教授は2007年3月にも「私の知る限り、日本軍は女性を強制動員して慰安婦にしたなどという資料はない。貧しさからの身売りがいくらでもあった時代に、なぜ強制動員の必要があるのか。合理的に考えてもおかしい」と発言し、当時兵隊風の服を来たものは多数いたし日本軍とは特定できない、また安倍晋三首相が厄介だから謝罪してはならない、そうした「謝罪」は韓国世論をミスリードすると発言している[676]。
吉見義明は1997年、研究者も強制連行のケースとは認定していない文玉珠に対し、強制連行ではないと主張しても研究上は意味をなさないと主張した[541]。しかし、文玉珠の証言は1993年の韓国の挺対協による調査においては、そのときの最も明白な強制連行の証言であった。それ以前の訴状には、騙されて掠われたことになっている。
非公開証言と日本外務省による「強制性」認定[編集]
宮沢内閣は1993年の「河野談話」発表以前に韓国政府の強い要請を受け、元慰安婦16人の証言を聞いたが、この時の元慰安婦の人選は韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会が行い、証言には福島瑞穂弁護士などの立会い人が付き添った[677]。日本政府はこの証言に対する質問も、裏付け調査をすることも許されず、この調査における慰安婦の氏名も証言内容も非公開とされた[677]。
この時内閣官房副長官であった石原信雄は、当時どれだけ歴史資料を探しても「日本側には強制連行の事実を示す資料も証言者もなく、韓国側にも通達、文書など物的なものはなかったが」、元慰安婦は強制性があると証言するので、「総合的に判断して強制性を認めた」と語っている[678]。そのような判断に至った理由を「強制性を認めれば、問題は収まるという判断があった」と語っている[678]。石原は、当時韓国政府は国家賠償を求めていなかったため、元慰安婦の名誉回復と日韓関係のために日本軍による強制性を認めたが、もし当時韓国側が日本政府による個人補償・国家賠償を求めていたら「通常の裁判同様、厳密な事実関係の調査に基づいた証拠を求めていた」と語っており、この非公開の「聞き取り調査」における元慰安婦の証言に裏付けはなく一方的な被害証言であったことを認めている[677][678]。なお慰安婦を被告として裁判したケースはないため、偽証罪[679]や事実認定[680]が法的に適用されたことはない。
平林博内閣外政審議室室長は、1997年3月12日の国会での小山孝雄参議院議員の質問に「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁[358]、翌日の新聞では産経新聞をのぞいてこの「裏取りもせず、非公開のものだけで強制連行を認めた」とする政府答弁について報道するメディアはなく公聴会が開かれることもなかった[681]。西岡力は金縛りにあったように「誰も、なにもいえなかった」として、これは1988年に梶山静六がアベック失踪について北朝鮮による拉致が濃厚と答弁したときの翌日に産経と日経以外のメディアが報道しなかったことと同じ構図だったと述べている[682]。
この時の証言認定が河野談話の前提ともなり、また、韓国政府はその河野談話を日本政府が強制連行を認めた証拠として提示するようになる。
なお、河野洋平は河野談話発表後、「半世紀以上も前の話だから場所とか状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」と、元慰安婦の証言の裏付けをとらずに証言は真正のものと認定している[683]。
クマラスワミ報告における北朝鮮人元慰安婦の証言[編集]
クマラスワミ報告書が採用した元慰安婦の証言の4例のうち、チョン・オクソンという北朝鮮在住の証言では、1933年に拉致されてからは慰安婦にさせられ、慰安婦仲間が一日に40人も相手をするのはきついと訴えると、「ヤマモト中隊長」はその女性を拷問したのちに首を切り、「その肉を茹でて食べさせろ」と命じたという[684]。秦郁彦の考証では、この物語の初出は北朝鮮平壌で発行された「労働新聞」1992年7月15日に掲載された元慰安婦の李福汝の身の上話と酷似している[684]。李福汝は1943年に満州の慰安所で焼印を押されたあとで生首スープを飲まされたと語っていた[684]。
秦はこのようなチョン・オクソンの証言は事実誤認が甚だしく、拉致された1933年の朝鮮半島は平時で戦地ではなく、また遊郭はあったが軍隊用慰安所は存在していなかったと指摘している[685]。
また、当時朝鮮総督府に勤務していた坪井幸生(忠清北道警察部長)と大師堂経慰(江原道地方課長)は[685]、朝鮮半島での慰安婦強制連行は当時ありえなかったとしたうえで、
朝鮮人の間には反日気分の底流があったから、我々は治安維持にはかなり神経を使っていた。もし吉田清治の狩り立てをやれば暴動になっていたろうし、朝鮮人警官が従わなかったろう。

と証言している[686][687]。
「慰安婦問題」の政治的な背景[編集]
韓国による政治的利用[編集]
自国にも慰安婦が存在したにもかかわらず日本のケースのみを韓国(韓国軍がベトナム戦争時に現地女性を多数強姦し、私生児を残したことが社会問題になった)[688]や中国が殊更取り上げることについては、政治的なカードとして利用するプロパガンダであるとの主張もある[688][689][690]。また日本に対する道徳的優位を誇示することで得られるナショナリズム的な「民族的快感」のために韓国は慰安婦問題を国際社会において利用しているとする見方もある[691]。
韓国系アメリカ人の研究者でサンフランシスコ州立大学教授のサラ・ソー (C. Sarah Soh) は2009年の著書で、慰安婦を「性奴隷」や戦争犯罪とむすびつけて描写するのは不正確であるとしたうえで、韓国政府と韓国議会が日本軍慰安婦問題を扇情的に扱い、異論を許さないまま「日帝による被害の物語」を国民に押し付け、誤導したと批判している[692]。ソー教授は「慰安婦が強制連行された」という物語は陳腐な教義[693]であり、韓国政府の政治戦略的な誇張が慰安婦問題の深い理解とその解決を妨害しているとして、韓国社会が被害者意識から脱却すること、また韓国もまた元慰安婦にトラウマを与えた共犯者であり、慰安婦制度それ自体は戦争犯罪ではなかったことを受け入れるべきだとした[692]。テンプル大学のジェフリー・キングストン教授はこの本について、勇気あるこの著書は慰安婦問題への理解を深めるものであり、また日本と韓国の和解を期待させると評した[692]。
日本の運動家による工作[編集]
また、特定の政治的意図を持った日本国内のマスコミや団体や人物などの工作と指摘する声もある。「河野談話」発表に関わった当時、内閣官房副長官だった石原信雄は、国会議員との会合において、初期の段階では韓国政府が慰安婦問題をあおるということはなく、むしろこの問題をあまり問題にしたくないような雰囲気を感じたが、ある日本の弁護士が韓国で慰安婦問題を掘り起こして大きくし、それに呼応する形で国会で質問を行うという連携プレーのようなことがあり「韓国政府としてもそう言われちゃうと放っておけない」という状況があったと語っている[694]。韓国の盧泰愚大統領も、慰安婦問題の発生について「日本の言論機関の方がこの問題を提起し、我が国の国民の反日感情を焚きつけ、国民を憤激させてしまいました。」と語っている[695]。
日本からの償い金受給者に対する韓国運動団体による差別[編集]
アジア女性基金が償い金を給付すると発表し、1997年1月から韓国人、フィリピン人など計285名の元慰安婦に対し、一人当たり200万円の「償い金」を受給を開始した[365]。韓国政府は当初は日本政府・アジア女性基金による償い金給付を歓迎した。しかし、挺対協の反対を受けて、韓国政府もアジア女性基金からの給付を拒否する一方、日本からの償い金を受けとらないと誓約した元日本軍慰安婦には生活支援金を支給し、韓国政府認定日本軍慰安婦207人のうち、アジア女性基金から受給した元慰安婦や既に亡くなったものを除く142人に生活支援金の支給を実施した[365][12][368]。
1997年1月の償い金給付に先立って1996年10月18日、挺対協の尹貞玉は償い金受け取りは「日本政府が犯した罪を認めず、ハルモニ(おばあさん)たちを売春婦扱いすることだ」として、受け取らないよう呼びかけた[696]。1996年10月、アジア女性基金に反対して「強制連行された日本軍『慰安婦』問題解決のための市民連帯」が韓国で結成され、独自の募金活動を行う[697]。
1997年5月28日、同市民連帯は目標の約30億ウォン(約4億円)には及ばなかったが、日本の市民運動から9731万ウォン(約1500万円)、全体で5億5000万ウォンの募金が集まったとして、必要経費を除き、一人当たり約350万ウォン(約46万6000円)を元慰安婦151人に配布すると発表した[697]。しかし、「日本からの一時金200万円と医療福祉事業としての300万円の計500万円を受け取った7人の元「慰安婦」に対しては配布しない」とした[697]。さらに、他の運動関係者らが償い金を受け取った7人の慰安婦に対して「いくら受け取った?」「通帳を見せろ!」と脅迫したり、「日本からの汚れた金を受け取れば、本当の娼婦になる。7人は娼婦だ!」と中傷したり、韓国政府の生活援助金を7人に対し打ち切るように働きかけた[698][697]。
挺対協の尹貞玉は「一部の人たちは、ハルモニたちが日本の募金を受け取ろうとするのをなぜ挺対協は邪魔するのかと言っているが、糖尿病にかかった夫が甘いものを食べようとすれば、涙をのんでもこれを止めさせるのが愛する妻のつとめである。ハルモニたちが、民族の自尊心と尊厳を日本に売り渡すことのないよう我々はハルモニたちを支えねばならない。」と弁明した[697]。
こうした日本からの償い金を受け取った慰安婦に対する差別や嫌がらせなどの行動について、日本の支援団体「日本の戦後責任をハッキリさせる会」の臼杵敬子は、「あらゆる活動、行事から7人を疎外する韓国運動体の制裁は、被害当事者の人権を無視した行動で慰安婦被害者をさらなる被害者とするもの」として批判し、75歳前後の高齢の被害者に対し、深い人権的な配慮を持つべきで、当事者が選択する意思が尊重されるべきだと主張した[697]。
[目次へ移動する]
朝日新聞の植村隆記事と「女子挺身隊」[編集]
1996年に吉田自身が証言における「時」と「場所」はフィクションであることを明らかにしたことで、慰安婦の強制連行の大きな根拠とされて来た「吉田証言」への信憑性が揺らぐこととなる。慰安婦の強制連行を認めない保守系の論客は、吉田証言を大きく取り上げて来た朝日新聞に対して、それまでの慰安婦報道に事実の歪曲があったと批判し、記事を執筆した朝日新聞記者植村隆記者は「(韓国語に詳しいはずなのに)金学順の韓国語での証言に含まれていた「キーセン」(公娼)出身ということは書かずに、実際に発言していない「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」との記事を書いたことは意図的な情報操作と指摘した [699]、これらの批判を受けてか、『朝日新聞』の縮刷版は同じ記事を12日付けにし、「『女子挺身隊』の名で戦場に連行された」という部分を削除した[要出典]。
韓国運動団体による補償金詐欺[編集]
2011年5月、韓国ソウル市警察は、太平洋戦争犠牲者遺族会や民間請求権訴訟団などの団体幹部39名を詐欺の容疑で摘発した[700]。摘発された団体は慰安婦問題や強制連行問題について活動してきた反日団体で、日本政府から補償金を受け取ってやるといって弁護士費用などの名目で会費15億ウォン(約1億2千万円)をだまし取っており、被害者は3万人に上った[700]。
ソウル市警察の発表によれば梁順任太平洋戦争犠牲者遺族会会長は各種団体への会員を募集する際に「動員犠牲者でなくても当時を生きた者なら誰でも補償を受け取れる」といって勧誘していた[700]。また会員を集めてきた場合には手当を支払うなどしていた[700]。
この梁順任会長は、1991年8月11日に「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と朝日新聞紙面で誤報記事を執筆した記者植村隆の義母でもある[701]。
(本項朝日新聞の報道・慰安婦訴訟も参照)
日韓基本条約「無効」論[編集]
日本政府は日韓基本条約および日韓請求権並びに経済協力協定で日韓の戦時中の補償問題は解決を見ているとの立場を一貫している。
しかし、2009年1月27日、法改正推進国会の金映宣政務委員長は「日帝下日本軍慰安婦被害者に対する生活安定支援及び記念事業などに関する法律」改正案を国会に提出した際、日韓基本条約については無効と主張した[702]。2011年8月16日には、韓国で「日韓協定無効化のための国民行動」準備委員会が発足し、同団体は「日韓基本条約は無効」と主張し、韓国政府に日韓基本条約の破棄とその無効性を認めるよう働きかけるとしている[703]
人権・人道に対する罪[編集]
戦後、ドイツは「人道に対する犯罪(人道に対する罪)には時効はない」と宣言した[704](ただしドイツ軍慰安婦への戦後補償は実施されていない[705])。ほか、日本のフェミニスト・女性学者や、クマラスワミ報告書やマクドゥーガル報告書などでは慰安婦問題を女性に対する暴力・性犯罪・強姦罪として問題にしている。
韓国系アメリカ人によるロビー活動においては近年、ホロコースト問題と日本軍慰安婦制度問題とを同列に考えようとしてユダヤ系アメリカ人との連携を進行させており、2011年12月15日にはコロンビア大学で「女性の権利」フォーラム主催のシンポジウム「人類の希望:ホロコーストと慰安婦の生存者の声」が開かれホロコーストの生存者である女性2名と、元慰安婦2名、チャールズ・ランセル下院議員、韓国系アメリカ人投票者協議会 (KAVC) のドンチャン・キム会長らが参加した[706]。また2012年5月に慰安婦の碑を建てたパリセイズ・パーク市に対して日本側が抗議を開始した直後に訪韓したヒラリー・クリントン国務長官は「(日本軍慰安婦制度の問題)は性奴隷の話であり、女性の権利と人道に対する罪の文脈で考えられなければならない」と内輪の席で述べたうえで、日本軍慰安婦制度は「唾棄すべきもの」で「巨大な規模の重大な人権侵犯」と語った[707]。
他方、当時は国が売春を認める「公娼制度」があった時代であり、性に対する倫理感覚、女性に対する人権感覚は現在と違っているのに、過去の歴史の出来事を現在の基準で裁くのは間違いだとの指摘もある[708]。政策研究大学院大学教授の北岡伸一も「21世紀の人権感覚を過去の歴史に適用するのは、いかにも乱暴」と述べている[709]。
元外交官の東郷和彦は日本での「強制連行」に関する議論に対して「必ずしも誤りでない」と理解を示しながらも[710]、2007年の安倍発言直後のカリフォルニア大学でのシンポジウムにおいて米国人女性の、米国における慰安婦問題の視点は「強制」であるかどうかなどは誰も関心がなく、「自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるか」という嫌悪感にもとづくものであり、「これは非歴史的 (ahistoric) な議論である。現在の価値観で過去を振り返って議論しているのだ」という発言を紹介している[711]。東郷は日本国内の慰安婦についての議論は国内でしか通用せずガラパゴス化しており[712]、今後の日本政府の対応次第では、日韓のみならず日本と欧米間に「深刻な対立を引き起こす可能性がある」と警告した[713]。他方で慰安婦問題とホロコースト問題とを同列に扱いえないことはユダヤ・ロビー自身が最も理解できるに違いないとしたうえで日本の外交戦略としてユダヤ・ロビーとの連携を訴えた[714]。また東郷は韓国政府がアジア女性基金による補償を受けようとした元慰安婦を非国民扱いしたことを強く批判し、戦後日本の法的秩序を全壊させかねないような過剰な「法的責任の追求」は遠慮してもらいたいと述べている[715]。
[目次へ移動する]
国連報告書に関する問題点[編集]
クマラスワミ報告[編集]
秦郁彦や荒井信一は、クマラスワミ報告には数多い事実誤認や歪曲があるとして、あた同報告の出典はオーストラリア人ジャーナリストであるジョージ・ヒックス (George Hicks) の著作”The Comfort Women”(1995年刊[716]に依拠しているという[379][717]。ヒックスの同書では千田夏光、金一勉、吉田清治、吉見義明らの著作や証言のすべてが真実のものとして取り扱われており、資料は在日朝鮮人三世のリ・ユミが情報の80%を収集し、リ・ハイキュン教授や吉見義明の協力を得たとヒックスは述べている[718]。秦郁彦は、本書はどの文献を参照したのか脚注もついておらず、また原著にない部分を記していたりしており、初歩的な間違いと歪曲だらけの通俗書と評している[719]。また秦は東京でクマラスワミ本人と質疑した際に「慰安婦の雇用契約は日本軍でなく民間業者との間でむすばれた」と指摘したことが、同報告書では「秦は慰安婦が日本陸軍と契約を交わした(…)と述べた」と歪曲されて記載されたため「まことの心外」として批判している[720]。
クマラスワミ報告の第21項には「ミクロネシアで70人の慰安婦が日本軍に虐殺された」とあるが、この報告書の引用元であるヒックスの著作[721]、およびヒックスの著作の引用元である金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(1976) にも人数名は記載されておらず、クマラスワミ報告の人数の出典は不明である[719]。金一勉の著作では、日本共産党の京都市議で作家の西口克己の小説『廓』(1969年、直木賞候補作品)が引用されている。この小説の末尾に1944年2月17日、ミクロネシアのトラック島で米軍の空襲中、日本軍が慰安婦を機関銃で皆殺しにしたとある[722]。秦郁彦によれば、そのような虐殺があれば戦後のトラック島戦犯法廷で裁かれるはずだが取り上げられていないし、またトラック島第四海軍施設部にいた阿部キヨの回想では空襲直後に女性陣総引揚命令が出され1944年2月28日には氷川丸などを乗り継いで帰国したが100人ほどの慰安婦も同乗しており、「そのような事件は当時聞いたことがない」と証言し、また金子兜太も同様の証言をしている[723][722]ため、これは西口によるフィクションであるとしている<[722]。 マクドゥーガル報告書[編集] 同じく国連で報告書をまとめたマクドゥーガル報告書でも「20万」の慰安婦が強制連行されたと報告されたが、日本のアジア女性基金の調査で、その出典は自民党代議士の個人的な発言に過ぎず、根拠とならないと批判している[300][500]。(#マクドゥーガル報告書と荒船発言参照)。 さらに、1999年の日弁連主催のゲイ・マクドゥーガル講演会において、吉見義明はマクドゥーガルが政府調査に基づくと報告した中で実際に政府資料にない箇所を本人を前に指摘したが、マクドゥーガルは無視したという[724]。 マクドゥーガル報告は2013年5月の国連拷問禁止委員会でも事実認定に用いられた[725] 「慰安婦」訴訟・関連訴訟[編集] 韓国人、中国人などを中心に元日本軍慰安婦であると名乗り出た人々が強制的に慰安婦にされたとして日本国に対し謝罪と賠償を求める訴訟、およびそれに関する訴訟が日本、アメリカ合衆国、韓国、フィリピンなどで多数起こされて来た。しかし、時効・除斥期間の経過、大日本帝国憲法が定めていた「国家無答責の法理」(官吏が公権力の行使に当たる行為によって市民に損害を加えても国家は損害賠償責任を負わないとする)、「個人を国際法の主体と認めない」などの理由で全て敗訴している。 慰安婦問題に関する各国での訴訟 1966年、大韓民国大法院は慰安婦として35歳までに得られるはずであった報酬に見合う損害賠償を求めた慰安婦の告訴を棄却[51]。 1991年、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件。2004年最高裁で敗訴。 1992年、釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟(2003年最高裁で敗訴) - この関釜裁判における一審判決(1998年4月27山口地裁下関支部)では、原告らが売春を強制されたことを事実認定し、国の立法義務、立法の不作為を認め、一人あたり30万円の支払いを命じた。しかし、控訴審(2001年3月29日、広島高裁)は一審判決を破棄し、立法行為への規制が司法判断になじまない事、該当事項に関する立法責任が明文化されていない事などを理由に原告側の請求を「全面棄却」。最高裁への上告(2003年3月25日)も棄却、原告敗訴が確定。 1993年4月5日、元慰安婦の在日韓国人宋神道が767億5893万7500円の支払い補償と謝罪を日本国に対して提訴した(在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求事件)。2000年11月30日、東京地裁は請求棄却。この際、判決効力に関連のない傍論において、裁判長は旧日本軍の慰安婦に対する行為が国際法違反であるとの意見を述べた。この傍論をもってVAWW-NETジャパンは「国際法違反であると事実認定された」と解釈している。[要出典] 2003年3月28日、最高裁判所が上告棄却により原告敗訴確定。 2000年9月、第二次世界大戦中に日本軍慰安婦にさせられたとする在米中国人および韓国人ら女性計15人が、日本政府を相手取って損害賠償請求の集団訴訟をワシントン連邦地方裁判所で起こした。アメリカ合衆国最高裁判所は、2006年2月21日却下の最終判断を下した(#米国での慰安婦訴訟を参照)[726] 。 2009年8月14日、ソウル行政裁判所は日韓請求権並びに経済協力協定によって戦後補償は解決済みと判決。 2010年4月28日、フィリピン最高裁は自国民の日本政府に対する要求について裁判所が行政機関に意見することは出来ないとして請求棄却。また、日本との外交関係を混乱させ地域の安定を損なうとの外務省の判断があったと指摘した[727]。原告の慰安婦たちは、当局に国際司法の場に持ち込むよう要求、また1951年の日本国との平和条約は無効とし、アジア女性基金から償い金を受け取り謝罪を受け入れたフィリピン政府を国際法違反と主張した[727] 2011年8月10日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が元慰安婦の賠償請求に関する日韓間の協定解釈の相違をめぐる争いを解決しないことは憲法違反」と判決[728]。 模擬裁判 これらの裁判の他、2000年に東京で国際NGOや市民らによって自主的に開催された民衆法廷(模擬法廷)である日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷(女性国際戦犯法廷)が開かれた。(自主的な裁判であり公式の裁判ではない)。この市民法廷では「昭和天皇と日本国は奴隷制度・強制連行・強姦・人身売買により人道に対する罪で有罪」と判決。 [目次へ移動する] その他[編集] 2004年2月、韓国国内で挺身隊(慰安婦)をテーマにした映像・写真集が民間業者によって撮影されたが、被写体女性が上半身裸であったことから「商業的ヌードに挺身隊のイメージを利用するのは冒涜だ」と市民から猛抗議が起きた。結果、企画は中断された。 韓国では慰安婦問題解決のため50万人の署名を集める運動が展開されているが、2010年3月の時点で2万人未満の署名にとどまっている[729]。 年表[編集] 「慰安婦の年表」を参照 慰安婦を描いた作品[編集] アメリカ映画 『モロッコ』ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、1930年。マレーネ・ディートリッヒ、ゲイリー・クーパー出演。 フランス映画 『外人部隊』ジャック・フェデー監督、1933年。フランソワーズ・ロゼー出演。 日本映画 『肉体の門』(1948年、監督マキノ正博、小崎政房、東宝) 『暁の脱走』(1950年、監督谷口千吉、共同脚本黒澤明、東宝)慰問団歌手が登場。 『独立愚連隊』(1959年、監督岡本喜八、東宝) この映画では慰安所に7人の慰安婦がおり、うち1人は朝鮮人(演じているのは中北千枝子)である。慰安婦はたくましく生きているように描かれており、朝鮮人慰安婦はセリフで、大東亜戦争が終わったら新宿で喫茶店を開くために慰安婦をやって稼いでいる、と言っている。強制連行されたり性奴隷にされている様子はない。 『独立愚連隊西へ』(1960年、監督岡本喜八、東宝) 『春婦伝』(1965年、監督鈴木清順、原作田村泰次郎、日活)1950年の映画『暁の脱走』のリメイク。 『従軍慰安婦』(1974年、監督鷹森立一、脚本石井輝男、原作千田夏光、東映) 『大日本帝国』(1982年、舛田利雄監督、笠原和夫脚本、東映)沖縄の慰安婦が登場。 韓国ドラマ 『여명의 눈동자(黎明の瞳)[334]』韓国・MBC放送。(1991年10月7日〜1992年2月6日放映) 原作:金聖鍾『여명의 눈동자(黎明の瞳)』韓国・日刊スポーツ新聞で1975年10月から連載[730]。 イタリア映画 『国境は燃えている』(原題はLe Soldatesse、1959年製作) 監督ヴァレリオ・ズルリーニ、原作ウーゴ・ピッロ。出演はアンナ・カリーナ、トマス・ミリアン、マリー・ラフォレ。1965年度モスクワ映画祭特別金賞受賞。物語では1940年ドイツ・イタリア軍占領下のギリシアでギリシア人女性が慰安婦とされる。英語題はThe Camp Followers。 オランダ映画 『38度線』(ワーナー・ホーム・ビデオ、原題はField of Honor、1986年製作) [目次へ移動する] 脚注[編集] [ヘルプ] ^ a b c d e f g h i j k l ‘皆さんはドルを稼いでくれる愛国者です’証言を通じて “基地村の隠された真実” 続々と明らかに(‘여러분은 달러를 벌어주는 애국자입니다’증언 통해 “기지촌의 숨겨진 진실” 속속 드러나) Ilda 2008/12/15(朝鮮語) ^ a b c d e f g h i j “朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 韓国の研究者発表”. 朝日新聞. (2002年2月24日) 2010年3月9日閲覧。 ^ a b c d e f g h 미니 인터뷰‘한국군 위안부’문제 제기한 김귀옥 박사 “밝혀진 건 퍼즐의 일부”(ミニインタビュー '韓国軍慰安婦'問題提起キム・グィオク博士 "明らかになったのは、パズルの一部") 日曜時報 2002年3月26日323号(朝鮮語) ^ “李栄薫ソウル大教授「従軍慰安婦は売春業」”. 朝鮮日報. (2004年9月3日) 2010年3月9日閲覧。 ^ a b c d e “한국군 '특수위안대'는 사실상의 공창 창간 2주년 기념 발굴특종 한국군도 '위안부' 운용했다 (2)(韓国軍'特殊慰安隊'は事実上の公娼 創刊2周年記念発掘特集 韓国軍も'慰安婦'運用した (2))” (韓国語). オーマイニュース. (2002年2月26日) 2010年3月9日閲覧。 ^ a b c d e f g h 秦郁彦. “米軍もさんざ日本じゃ慰安させ――朝日川柳――”. いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト. ワック・マガジンズ. 2010年5月31日閲覧。web魚拓 ^ a b c d e f Donna Hughes, Katherine Chon, Ellerman Ellerman (2007). Modern-Day Comfort Women:The U.S. Military, Transnational Crime, and the Trafficking of Women. ロードアイランド大学. p. 4. ^ a b c d e f g h i j k l “東亜日報慰安婦掲載一覧” (韓国語). 東亜日報 2010年3月9日閲覧。 ^ a b c d e f “Fearing G.I. Occupiers, Japan Urgesd Women Into Brothels” (英語). ニューヨーク・タイムズ. (1995年10月27日) 2012年7月8日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 大韓民国の物語 李榮薫著 永島広紀訳 文藝春秋 2009/02 ISBN 4163703101 ^ a b c d e f g h i j "米国と韓国の軍の性売買は国際法違反" (“미국과 한국의 미군성매매는 국제법 위반”) 統一TV 2008年10月17日(朝鮮語) ^ a b c d e f g “Former sex workers in fight for compensation” (英語). 中央日報. (2008年10月30日) 2010年3月8日閲覧。 ^ a b c “大韓民国政府が売春斡旋業者であった 売春取締を装い女性を外貨稼ぎの手段と考えた韓国政府… 朝鮮戦争時に慰安所を設置して、独裁政権は在韓米軍・日本人対象売春助長 (대한민국 정부가 포주였다 성매매 단속하는 척하며 여성을 외화벌이 수단으로 여겼던 한국 정부… 한국전쟁 때 위안소 설치하고, 독재정권은 주한미군·일본인 대상 성매매 조장해)”. ハンギョレ. (2011年11月28日) 2012年7月9日閲覧。 ^ a b c d e f 李榮薫 その日、私はなぜそのように言ったのか New Daily 2009年6月1日 ^ a b c d 秦郁彦 1999, p. 145 ^ a b 「性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ」1997,p51 ^ 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」ユン貞玉編『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書,1992年,p129. ^ en:Brothel#Military brothelsから抄訳 ^ en:Prostitutes in South Korea for the U.S. militaryから抄訳。 ^ 千田夏光『従軍慰安婦』(双葉社 1973年) ^ 秦1999,p362 ^ 藤岡信勝『汚辱の近現代史』 [要ページ番号] ^ [http://kotobank.jp/word/%E5%BE%93%E8%BB%8D 大辞林 第三版【従軍】] ^ 『Ronza』1997年8月号 千田夏光「『従軍慰安婦』の真実」 [要ページ番号] ^ 吉見義明・林博史(編著)『共同研究・日本軍慰安婦』大月書店、1995年8月 ^ 『朝鮮日報』(2004年10月22日付) ^ 秦1999,p358 ^ 第21号 昭和43年4月26日 第058回国会 社会労働委員会 ^ a b c d e f g h i j k 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編著『朝鮮人女性がみた慰安婦問題』三一新書,1992. ^ a b 1937年12月21日の在上海日本総領事館警察署長「皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件」 ^ a b 関東局(編)の『関東局施政三十年史』(原書房 1974年) ^ a b c d e 秦1999,pp358-366 ^ a b c d e f g h i j 永井和「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」『二十世紀研究』創刊号、2000年、京都大学大学院文学研究科。「日本軍の慰安所政策について」(2012年増補)。 ^ a b c d 報知新聞 1931.4.5(昭和6)「国際信義と公娼廃止」[1](神戸大学近代デジタルライブラリ) ^ a b c d e 小野田寛郎による「私が見た『従軍慰安婦』の正体」(『正論』2005年1月号)[要ページ番号] ^ 北支那方面軍の伍長をしていた金子安次の証言(「女性国際戦犯法廷」 2000年12月) ^ 衆議院本会議昭和20年11月29日、福家俊一発言。[2]、帝国議会会議録。 ^ 貴族院本会議昭和20年(1945年)12月14日。關屋貞三郎の「在外同胞救援」発言。 [3]帝国議会会議録、貴族院本会議昭和20年12月14日。 ^ a b c d e f g h i j k l m n 慰安婦問題の問いかけているもの ^ 新井佐和子:『広辞苑』が載せた「朝鮮人強制連行」のウソ。正論(1998/5)pp46-53 ^ 『広辞苑の嘘』光文社2001,pp210-211 ^ 世界大百科事典 第2版【従軍慰安婦】 ^ 大辞林 第三版 【慰安婦】 ^ a b c d e f g h 李娜榮 日本軍「慰安婦」と米軍基地村の「洋公主」 立命館言語文化研究 23(2), 209-228, 2011-10-00 ^ 朝鮮日報1992.1.15 ^ a b c d e 秦郁彦 1999, p. 369 ^ 秦郁彦 1999, pp. 366-367 ^ a b c d e f g h 秦郁彦 1999, p. 367 ^ 秦郁彦 1999, pp. 367-369 ^ 尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍慰安婦』明石書店,2003年 [要ページ番号] ^ a b c d e f "손해배상[대법원 1966.10.18, 선고, 66다1635,1636, 판결](損害賠償[大法院1966.10.18宣告, 66ダ1635, 1636判決])", 大韓民国法制処国家法令情報センター. ^ Yang Hyunah,Revisiting the Isuues of Korean Military Comfort Women,Positions5(1),1997. ^ Donna Hughes, 他Modern-Day Comfort Women:[4],p.4 ^ ジョージ・ヒックス (George Hicks) の著作”The Comfort Women”(邦訳『性の奴隷 従軍慰安婦』三一書房、1995年)他。 ^ a b Denial Reopens Wounds of Japan's Ex-Sex Slaves New York Times March 8, 2007 ^ a b c d e f g h i j k CHOE SANG-HUN (2009年1月8日). “Ex-Prostitutes Say South Korea and U.S. Enabled Sex Trade Near Bases” (英語). ニューヨーク・タイムズ 2012年10月31日閲覧。 ^ Columbia University Press,2000. ^ 「日本軍性奴隷問題への国際社会と日本の対応を振り返る」『戦争と性』第25号、2006年5月号 [要ページ番号] ^ 西岡力2007,p157 ^ 西岡力2007,p156 ^ 西岡力2007,p157-158 ^ 秦郁彦 1999, p. 331 ^ a b 秦郁彦 1999, p. 334 ^ a b c d [5] 日弁連会長土屋公献声明「従軍慰安婦問題への政府の対応に関する声明」1995年11月16日。 ^ [6] 日弁連HP:会長声明・日弁連コメント1996年6月20日「従軍慰安婦問題に関する声明」 ^ 秦1999,p217 ^ a b c Chunghee Sarah Soh,The Comfort Woman,pp71-72 ^ 女たちの戦争と平和資料館事務局長の渡辺美奈による。渡辺美奈・林博史・俵義文著『村山・河野談話見直しの錯誤』第三章「世界は日本軍慰安婦をどう見てきたか」、かもがわ出版、2013年4月 [要ページ番号] ^ 秦郁彦 1999, p. 327 ^ 秦郁彦 1999, p. 191 ^ 藤目ゆき1997 ^ E/CN.4/1996/53/Add.1(付属文書1「戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」)アジア女性基金による和訳「付属文書1」p1他で「軍性奴隷制」と明記、p2では「明確に性奴隷制」であるとしている。 ^ 西岡力「世界中にばら撒かれた「慰安婦問題」が捏造である完全なる根拠」SAPIO2012年8月22・29日号 ^ 西岡力論文の該当箇所はniftyニュース2012年9月13日で閲覧可[7](2012年10月20日閲覧) ^ 西岡力2007,p161-165 ^ 『私は「慰安婦」ではない 日本の侵略と性奴隷』 戦争犠牲者を心に刻む会編 東方出版,1997年 ^ 『日本が知らない戦争責任』1999年現代人文社 ^ 秦郁彦 1999, pp. 328-329 ^ a b (参院内閣委)戦時性的強制被害者問題法案、審議入り 民主党ホームページ[リンク切れ] ^ 戦時性的強制被害者間題の解決の促進に関する法律案(仮称)政策要綱 民主党公式HP 1999/12/22 ^ 前田朗「大量虐殺的強姦」国連人権促進保護小委員会第56回会期2004年8月10日 ^ a b c d e f g h i j 山田宏「売春」世界大百科事典、平凡社、2007,p333 ^ a b c d e 山手茂「売春」日本大百科全書、小学館、1987 ^ 『性の奴隷従軍慰安婦』 三一書房 1995,p23 ^ 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p13 ^ 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p14 ^ バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p206 ^ ヒックス1995,p23 ^ バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p287 ^ ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p289-291 ^ a b c d 藤目ゆき「性の歴史学」1997,p53 ^ ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p300 ^ ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p301 ^ ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991年,p304 ^ a b 藤目ゆき「性の歴史学」1997,p54-55 ^ 菊池蘇太郎「軍隊ニオケル花柳病予防法」。川田文子「戦争と性 近代公娼制度・慰安所制度をめぐって」明石書店,1995年4月刊。 ^ 報知新聞 1931.4.5(昭和6)「国際信義と公娼廃止」[8](神戸大学近代デジタルライブラリ) ^ 小谷野敦『日本売春史』新潮社,p149,2007年 ^ a b 秦郁彦 1999, p. 146 ^ ヒックス1995,p24 ^ a b c 「性の歴史学」,p56 ^ 「性の歴史学」,p79 ^ a b [9]Wendy Jo Gertjejanssen:Victims, Heroes, Survivors. Sexual Violence On The Eastern Front During World War II, University of Minnesota, 2004Mai. ^ Wendy2004,p16-7 ^ 柴田修子「戦時性暴力の被害者から変革の主体へ」立命館言語文化研究 ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」2013年2月。 ^ 柴田修子「戦時性暴力の被害者から変革の主体へ」p.71 ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」p29. ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」p30. ^ ヒックス1995,p25 ^ David J.Piver,Cleansing the Nation:The War on Prostitution 1917-1921,Prolougue:The Journal of the National Archives,No.12,Spring,1980.,pp.24-30 ^ a b c 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p78。 ^ #フランス軍慰安婦参照。 ^ a b c 『正論』2005年11月号「引揚民間人を襲った略奪・暴行・殺戮の嵐」 [要ページ番号] ^ a b 秦郁彦 1999, pp. 147-149 ^ 秦郁彦 1999, p. 147 ^ #インド駐留インド軍参照。 ^ Schuessler, Jennifer (2013年5月20日). “The Dark Side of Liberation”. New York Times 2013年6月14日閲覧。 ^ Faur, Fabienne (2013年5月26日). “GI's were liberators yes, but also trouble in Normandy”. Agence France-Presse 2013年6月14日閲覧。 ^ a b 秦郁彦 1999, p. 148 ^ 岡村寧次『戦場回想編』1970年、302-303頁 ^ 「デジタル記念館・慰安婦問題とアジア女性基金」慰安婦とは―慰安所の設置「・・・慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」 ^ 「デジタル記念館・慰安婦問題とアジア女性基金」[10]p55-p74「・・・慰安所を設けた。然し、強姦は甚だ盛んに行われて・・・」 ^ 吉見義明『従軍慰安婦』1995年、43-47頁「慰安所設置が強姦防止に役立たなかった事がよく示されていよう」 ^ 十五年戦争極秘資料集 補巻 、早尾乕雄『 戦場心理の研究 総論』「南京、上海、杭州等代表的ノ都市ニ於ケル将兵ノ状態ニ就テ述ベテ見様ト思フ」p49 ^ 「デジタル記念館・慰安婦問題とアジア女性基金[11]p55-p74 ^ 十五年戦争極秘資料集 補巻 、早尾乕雄『 戦場心理の研究 第2』第八章「戦争ト性欲」P247 ^ 「デジタル記念館・慰安婦問題とアジア女性基金」 [12]p55-p74(強姦の具体的描写はP67-P74) ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」,p6-7 ^ 秦郁彦 1999, pp. 152-153 ^ ビーヴァー『ベルリン陥落1945』pp.72-75 ^ 半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文藝春秋社,1999年,p247 ^ アントニー・ビーヴァー著・川上洸訳『ベルリン陥落1945』白水社,2004年,p.602 ^ 太平洋戦争研究会編『図説 満州帝国』河出書房新社刊、1996年、p135 ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」,同猪俣論文,p16、p19-22。 ^ 上坪隆『水子の譜』社会思想社現代教養文庫p.183「昭和21年6月10日付 二日市保養所報告書(報告対象期間=昭和21年3月25日~21年6月5日)"地域別と加害者" 不法妊娠(強姦等による妊娠 救療部の用語)ヲ地区別ニ分類スルニ北朝24ニシテ最多、 南鮮14、満州4、北支3ノ順序ニシテ鮮_人ニ因ルモノ28、ソ連人ニ因ルモノハ8、支那人ニ因ルモノ6人、米人ニ因ルモノ3、台湾人、比島人ニ因ルモノ各1ナリ 」 ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」,p36 ^ [13]中央日報2007年1月23日 ^ “第008回国会 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号”. 衆議院. 国立国会図書館 (1950年10月31日). 2010年9月29日閲覧。 ^ a b c d e 水間政憲「封印されていた占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件」ファイル」SAPIO(小学館)2007年4月11日号 [要ページ番号] ^ 内務省警保局外事課「進駐軍ノ不法行為」、国立公文書館所蔵 [要ページ番号] ^ a b “戦後日本における米軍向け慰安婦の悲惨な生活(1)”. 中国網. (2010年7月26日) 2013年6月12日閲覧。 ^ 朝日新聞1945年9月5日「神奈川県の女生徒は休校 教職員が家族を巡回指導」 ^ 五島勉『日本の貞操 続』(蒼樹社 1953年)(のち『黒い春《米軍・パンパン・女たちの戦後》』1985年倒語社より復刻) [要ページ番号] ^ a b Terese Svoboda U.S. Courts-Martial in Occupation Japan: Rape, Race, and Censorship - See more at: http://www.japanfocus.org/-terese-svoboda/3148#sthash.J2EixRRr.dpuf The Asia-Pacific Journal: Japan Focus ^ Grace Cho (2008). Haunting the Korean Diaspora: Shame, Secrecy, and the Forgotten War. ミネソタ大学出版. p. 94. ISBN 0816652759. ^ 中央日報 2002年02月24日19時29分 「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張 [14] ^ a b c 天児都 『「慰安婦問題」の問いかけているもの』 石風社 2001年7月 [要ページ番号] ^ 『朝日新聞』2002年2月24日付)1956年に韓国陸軍本部編纂した公式記録や目撃者たちの証言の研究による。 ^ Park, Soo-mee (2008年10月30日). “Former sex workers in fight for compensation”. 中央日報英語版 2013年6月7日閲覧。 ^ Ghosh, Palash (2013年4月29日). “South Korea: A Thriving Sex Industry In A Powerful, Wealthy Super-State”. インターナショナルビジネスタイムス 2013年6月7日閲覧。 ^ a b c 崔吉城「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」『アジア社会文化研究』no.2 page.1-16,2001年、広島大学学術リポジトリ。 ^ Rhee, Young-hoon (2009年6月1日). “그날 나는 왜 그렇게 말하였던가”. New Daily 2013年7月13日閲覧。 ^ Lee, Jin-kyung (2010). Service Economies: Militarism, Sex Work, and Migrant Labor in South Korea. University of Minnesota Press. p. 125. ISBN 0816651264. ^ [15] Hyun S.Kim,JT Takagi,and Hye-Jung Park,The Woman Outside:Korean Women and the U.S.Militaly,1997/updated2009. p.8 ^ a b c d e “US servicemen in Korea contribute to human trafficking: report”. プレステレビ. (2012年12月21日) 2013年6月6日閲覧。 ^ Dujisin, Zoltán (2009年7月7日). “RIGHTS-SOUTH KOREA: Prostitution Thrives with U.S. Military Presence”. インター・プレス・サービス 2013年6月7日閲覧。 ^ Robson, Seth (2005年8月6日). “Ex-bar worker who was forced into prostitution wins $5,000 judgment”. 星条旗新聞 2013年6月7日閲覧。 ^ Annie Isabel Fukushima and Gwyn Kirk (2013年6月17日). “Military Sexual Violence: From Frontline to Fenceline”. Foreign Policy in Focus 2013年6月30日閲覧。 ^ a b Macintyre, Donald (2002年8月5日). “Base Instincts”. タイム 2013年6月7日閲覧。 ^ “Court rules in favor of Filipina prostitutes”. 中央日報英語版. (2003年5月31日) 2013年6月7日閲覧。 ^ Rabiroff, Jon (2009年9月26日). “Philippine Embassy has 'watch list' of suspect bars in South Korea”. 星条旗新聞 2013年6月7日閲覧。 ^ Human Trafficking public service announcement 在韓米軍 2012年11月20日 ^ a b c d ヒックス1995,p24 ^ a b c 秦郁彦 1999, p. 156 ^ 秦郁彦 1999, p. 157 ^ 秦郁彦 1999, p. 158 ^ 秦郁彦 1999, p. 149 ^ クリスタ・パウル『ナチズムと強制売春』明石書店1996 ^ 1992年9月号。[要ページ番号] ^ Franz Seidler,Prostitution,Homosexualitat,Selbstvertummelung-Probleme der deutschen Sanitatsfuhrung 1939-45,Neckargemund,1977,Kurt Vowinkel Verlag. ^ 朝日新聞1992年9月7日記事 ^ a b c 秦郁彦 1999, p. 150 ^ 秦郁彦 1999, p. 151 ^ a b c 秦郁彦 1999, p. 171 ^ a b c d e f g h i j k l m 金貴玉「朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について」『軍隊と性暴力―朝鮮半島の20世紀』宋連玉, 金栄編、現代史料出版 2010年所収。 ^ en:Bordel militaire de campagne参照 ^ Mustapha El Qadéry, BNRM, Rabat「Femmes des Bordels Militaires de Campagne. Les BMC de l’armée coloniale française au Maroc」Publié in, M. Cheikh & M. Péraldi, Des femmes sur les routes. Voyage au féminin entre Afrique et Méditerranée, éd. CJB, le Fennec, Karthala, Cacablanca, 2009, pp. 229-244 ^ Christelle Taraud, La prostitution coloniale. Algérie, Maroc, Tunisie (1830-1962), Paris, Éditions Payot & Rivages, 2009 [2003], ^ Bernard B.Fall, Street without Joy, Harrisburg, 1961. ^ John C.Burnham:Medical Inspection of Prostitutes in America in the 19th Century,Bulletin of the History of Medicine,45,May-June 1971 ^ a b c d 藤目ゆき「性の歴史学」第一章 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p70 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p73-74 ^ Lucie Cheng Hirata,Free,Indentured,Enslaved:Chinese Prostitute in 19th Century America,Journal of women in culture and socaiety,vol,5.no1,1979 ^ Judy Yung,Chinese Women of America,University of Washington Press,1986 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p70 ^ 若槻泰雄「排日の歴史」中公新書p32-3 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p72 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p75 ^ a b 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p76 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p76-77。 ^ Carol Anonueva,Prostitution in Philippines,in Cast the First Stone,pp64-89 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p59 ^ a b 藤目ゆき「性の歴史学」第一章p77。 ^ 秦郁彦 1999, p. 160 ^ a b 秦郁彦 1999, p. 163 ^ セオドア・ホワイト『歴史の探求』サイマル出版会、1978、上、p183。 ^ 秦郁彦 1999, p. 164 ^ 秦郁彦 1999, p. 161 ^ 恵泉女学園大学平和文化研究所編集『占領と性』インパクト出版会,2007,p.26. ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p326。 ^ 恵泉女学園大学平和文化研究所編集『占領と性』インパクト出版会,2007,p.47. ^ 『占領と性』2007,p.48 ^ 『占領と性』2007,p.48 ^ 『占領と性』2007,p.50 ^ 『占領と性』2007,p.51 ^ 住本利男『占領秘史』毎日新聞社1952年,65-72p ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p327。 ^ 朝日新聞1955年8月15日 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p327。 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p327。 ^ 『占領と性』インパクト出版会,2007,p.45. ^ 林茂夫「駐韓米軍」二月社、1978年、p178 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p332。 ^ Treaty of San Francisco Wikisource ^ a b c d “アジア女性基金事業実施に際しての総理の手紙” (プレスリリース), 首相官邸, (1996年8月19日) 2010年3月8日閲覧。 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p332。 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p332。 ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p332。 ^ 「売笑婦のいない世界を」『婦人公論』(1953年4月号) [要ページ番号] ^ 藤目ゆき「性の歴史学」p332-337。 ^ a b [16]「廃娼運動の歴史」平成9年、国立国会図書館 ^ a b c d e f g h i j k l 藤永壮「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に―」京都大学大学院文学研究科・文学部・現代文化学系「二十世紀」編『二十世紀研究』第5号、2004年12月 ^ 『天皇と朝鮮人と総督府』金一勉著、p38 ^ 『朝鮮新聞』1911年4月19日記事 ^ 1918年6月12日『京城日報』 ^ a b c 宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春-朝鮮の公娼を中心にして」(『朝鮮史研究会論文集』32集、1994年、pp.37-88, 緑陰書房) ^ 秦1999,p63 ^ 蘇智良『上海日軍慰安所実録』。上海に始まる日本軍慰安所 上海師範大教授が調査(『人民網』日本語版 2005年6月17日付) ^ 大審院刑事判例集.第16巻上[17]P.254、PDF-P.145 ^ 「日本軍「従軍慰安婦」被害者の拉致事件を処罰した戦前の下級審刑事判決を発掘」戸塚悦朗(龍谷法学2004-12-25)[18][19]、「日本軍「従軍慰安婦」被害者の拉致事件を処罰した戦前の下級審刑事判決を発掘(続)」戸塚悦朗(龍谷法学 2006-03-10)[20][21] ^ 1932年3月23日東亜日報「巡査出身の誘拐魔が検挙」 ^ 東亜日報1933年5月5日「民籍を偽造 醜業を強制 悪魔のような遊郭業者の所業 犯人逮捕へ」 ^ a b c d e f 水間政憲『新史料発掘!当時の朝鮮紙が報道していた極悪「朝鮮人業者」強制連行の動かぬ証拠~まさに「悪魔の所業」──日本軍はこれら業者と取引するなと命令していた~]』SAPIO 2007年5月9日号,小学館 ^ 東亜日報1933年6月30日「路上で少女掠取 醜業中人に売渡 金神通を売った男女検挙 判明した誘拐魔の手段」 ^ 1934年4月14日東亜日報「災害地 処女 遊郭誘引魔」 ^ 1934年7月16日東亜日報「十一歳少女売春強要」 ^ 1936年3月15日東亜日報「春窮を弄ぶ悪魔! 農村に人肉商跳梁 就職を甘餌に処女等誘出 烏山でも一名が被捉」 ^ 岡村寧次『戦場回想編』1970年、302-303頁 ^ アジア女性基金慰安婦とは―慰安所の設置 ^ アジア女性基金[22]p55-p74 ^ 吉見義明『従軍慰安婦』1995年、43-47頁 ^ 十五年戦争極秘資料集 補巻 、早尾乕雄『 戦場心理の研究 第2』第八章「戦争ト性欲」P247,p49 ^ アジア女性基金 [23]p55-p74(強姦はP67-P74) ^ 政府調査「従軍慰安婦関連資料集成」4巻,P293 ^ “支那渡航婦女ノ取扱二関スル件”. 陸軍省. 国立アジア歴史資料センター (1938年2月18日). 2010年3月10日閲覧。 ^ 吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店, 1992年。平尾弘子「戦時下支那渡航婦女の記」関釜裁判ニュース第54号,2008年7月13日。 ^ 吉見義明著『従軍慰安婦』P5、P36、P91 ^ 石出法太、金富子、林博史『日本軍慰安婦をどう教えるか』P85,P114 ^ 1938年12月4日東亜日報「良家処女誘引し、満州へ売却騙財 釜山署、犯人逮捕」 ^ 1939年3月15日東亜日報「河允明誘拐事件波紋拡大 悪辣な遊郭業者」 ^ a b c d 秦郁彦 1999, p. 54 ^ 1939年3月5日毎日新報 ^ 1939年3月9日東亜日報「誘引事件多端 遊郭業者が娼妓を地方へ転売」 ^ 1939年3月15日東亜日報 ^ 1939年3月29日東亜日報 ^ 雑誌「朝光」(朝鮮日報社刊)1939年5月号 ^ 1939年5月27日東亜日報「支那人が朝鮮収養女 養育 断固禁止」 ^ 東亜日報、1939年8月5日 ^ 1939年8月31日東亜日報「悪徳紹介業者が跋扈。農村婦女子を誘拐。被害女性が100名を突破する」 ^ 「政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成2」竜渓書舎1997年 ^ 京都大学グローバルCOE「帝国日本の戦時性暴力」,p6-7 ^ a b c d e 山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書,1992年,p131. ^ a b c 李能和『朝鮮解語花史』東洋書院、1927年。「李能和全集2」韓国学研究所 ^ 川村湊『妓生』p.20 ^ a b c d e 朴禮緒「〈朝鮮歴史民俗の旅〉妓生 (1)」朝鮮新報 2004.10.30 ^ a b 野村伸一: 「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)(2008年。野村「賤民」の文化史序説(『いくつもの日本5』岩波書店、2003年所収)を補訂したもの)2012年11月15日閲覧 ^ 川村湊『妓生』p.21 ^ 梨花女子大学校韓国女性史編纂委員会『韓国女性史』第一巻、梨大出版部、1978年、p519-520 ^ a b c d e f 川村湊『妓生』作品社、2001年、p.40-43 ^ a b 川村湊『妓生』p.34 ^ 川村湊『妓生』p.33 ^ a b c d e f 川村湊『妓生』p.35-38 ^ a b c d 林鍾国『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p148-149 ^ a b c d 『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p150-151 ^ 『ソウル城下に漢江は流れる』(平凡社1987年),p147 ^ a b 川村湊『妓生』p.43 ^ a b c 川田文子「戦争と性」明石書店,1995年。p76-77 ^ a b c d e f g h i 川村湊『妓生』p.44-51 ^ 川村湊『妓生』p.112-3 ^ 川村湊『妓生』p.113 ^ 川村湊『妓生』作品社、2001年、p.38-39 ^ a b c d e f g h i j Openly revealing a secret life JoongAng Daily(中央日報)July 31, 2005 ^ a b 李榮薫2009,p156-158 ^ 1956年4月11日東亜日報「少女二名誘拐 売淫「ブローカー」拘束」 ^ 1959年10月18日 東亜日報「慰安婦66%が保菌 全国接客女人検診結果」 ^ 1961年1月31日 東亜日報「慰安婦教養講習 伊淡支所主催で」 ^ 1961年9月14日の東亜日報「UN軍相対慰安婦 13日から登録実施」 ^ 釜山日報2004年9月18日 ^ 名越二荒之助 『日韓共鳴二千年史』明成社、2002年。[要ページ番号] ^ a b “Deliver them from 'hell'” (英語). 中央日報. (2002年10月19日) 2010年3月8日閲覧。 ^ a b “Filipinas forced into prostitution on the rise in S.Korea” (英語). ハンギョレ. (2009年12月1日) 2010年3月8日閲覧。 ^ a b “【社説】国際的な恥、韓国の売買春”. 中央日報. (2002年10月18日) 2010年3月8日閲覧。 ^ “韓国人女性8000人、米国で‘遠征売春’”. 中央日報. (2006年6月21日) 2010年3月8日閲覧。 ^ 2012年9月12日放送 ^ 2012/9/13朝鮮日報「性犯罪:元警察署長が公娼制度導入を提唱 」 ^ 小熊英二『1968』下巻 新曜社p.713、p.721 ^ a b 沖縄のハルモニ (1979) 山谷哲夫 晩聲社、東京 [要ページ番号] ^ a b c d e f 高崎宗司「半島女子勤労挺身隊」について]:『「慰安婦」問題 調査報告・1999』財団法人女性のためのアジア平和国民基金刊,1999年。 ^ 秦「慰安婦と戦場の性」p15 ^ 秦1999,p229 ^ 秦1999,p26 ^ a b c d e f g h i j k l m “慰安婦にまるわる年表”. いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト. ワック・マガジンズ. 2010年3月8日閲覧。 ^ 秦1999,p235,p242 ^ 『戦争責任』岩波書店、1985年、p104〜107,p241 ^ 秦1999,p240-242 ^ 「慰安婦問題の国際化」(『裁かれるニッポン』日本評論社1996) ^ 秦「慰安婦と戦場の性」p18 ^ 秦1999,p232-233 ^ 西岡力. “慰安婦Q&A、「韓国・北朝鮮の嘘を見破る」ISBN:4166605208 pp.124-132「「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら」”. 鄭大均 古田博司 編集 文藝春秋. ワック・マガジンズ. 2010年3月12日閲覧。 ^ 秦1999,p233 ^ 高崎宗司「反日感情」(講談社現代新書)p130 ^ 秦1999,p247 ^ 柳原一徳『従軍慰安婦問題と戦後五十年』藻川出版、1995年,p39 ^ 秦1999,p247-8 ^ 『女たちの太平洋戦争』(朝日新聞社,1991-2) ^ 秦1999,p236 ^ 秦1999,p236 ^ [24] 1992.8.8 ^ 秦1999,p232-234 ^ 「週刊新潮」1996年5月2・9日号 [要ページ番号] ^ 「諸君!」1998年11月号 [要ページ番号] ^ 秦1999,p246 ^ 秦1999,p238 ^ 秦1999,p240 ^ 秦1999,p246 ^ 秦1999,p246-7,第9章 ^ 朴正薫 (2012年9月5日). “태평로 조선인 위안부 '사냥'을 고백한 일본인” (韓国語). 朝鮮日報. 2012年9月9日閲覧。 ^ 黒田勝弘 市川速水 共著『朝日VS.産経 ソウル発』朝日新書 2006年 [要ページ番号] ^ 1991年5月22日『朝日新聞』大阪版「木剣ふるい無理やり動員」 ^ 金学順参照 ^ 植村隆を参照。西岡力「<慰安婦問題>とは何だったのか」文藝春秋1992年4月号。 [要ページ番号]
^ a b c 野平俊水「韓国ドラマ「日本嫌い」事情えっ、ヨン様までが反日!?」『諸君!』2004年8月号文藝春秋 [要ページ番号]
^ 여명의 눈동자
^ 日刊スポーツ新聞(일간스포츠신문)サイト社史。[25]
^ a b 池田信夫 (2012年8月24日). “日韓関係をこじらせた「河野談話」の訂正が必要だ”. ニューズウィーク日本語版. 2012年9月6日閲覧。
^ a b 慰安婦問題の「主犯」は福島瑞穂弁護士
^ 秦郁彦 1999, pp. 11-13
^ a b c d 秦郁彦 1999, p. 13
^ 毎日新聞1993年9月9日「記者の目 日韓関係」
^ a b c 岡田邦宏 (2006年6月14日). “「河野談話」の背景と教訓(『明日への選択』平成15年9月号)”. 日本政策研究センター. 2010年3月8日閲覧。
^ 秦郁彦 1999, p. 334
^ a b 西岡力「世界中にばら撒かれた「慰安婦問題」が捏造である完全なる根拠 (5/7)」、『SAPIO』2012年8月22・29日号、小学館、2012年9月13日、2012年10月20日閲覧。
^ 『戦争と性』第25号2006年5月 [要ページ番号]
^ 西岡力「世界中にばら撒かれた「慰安婦問題」が捏造である完全なる根拠 (6/7)」、『SAPIO』2012年8月22・29日号、小学館、2012年9月13日、2013年6月6日閲覧。
^ 中韓修交共同声明
^ [26]新井高志「韓国外交史における韓中関係―韓国の対中国交樹立の目的とその影響― 」創価大学文系研究院法律学専攻、平成19年度紀要。
^ 石崎菜生「韓国の北方外交-中韓国交正常化を中心に-」『冷戦後の北東アジア : 新たな相互関係の模索』アジア経済研究所研究双書439. 1993年 [要ページ番号]
^ 「いわゆる従軍慰安婦問題について」
^ “慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話” (プレスリリース), 外務省, (1993年8月4日) 2010年3月8日閲覧。
^ a b “第140回国会 予算委員会 第2号”. 参議院. 国立国会図書館 (1997年1月30日). 2010年3月8日閲覧。
^ a b c 阿比留瑠比 (2008年9月18日). “さらば“河野談話” 引退前に非を認めてほしかった”. 産経新聞 2010年3月12日閲覧。
^ 櫻井よしこ (2007年3月17日). “妥協の積み重ねで『強制』の濡れ衣 慰安婦問題は根本から論じ直すべき”. 週刊ダイヤモンド. 櫻井よしこ. 2010年3月12日閲覧。
^ “「慰安婦」問題に関する意見書”. 生駒市議会. 生駒市 (2009年9月11日). 2010年3月12日閲覧。
^ a b “内閣総理大臣の談話 平成六年八月三十一日” (プレスリリース), 首相官邸, (1994年8月31日) 2010年3月8日閲覧。
^ “第166回国会 予算委員会 第3号”. 参議院. 国立国会図書館 (2007年3月5日). 2010年3月8日閲覧。
^ a b 西岡力 2007, pp. 139-143
^ a b c 『産経新聞』1997年3月9日付
^ a b c 第140回国会 参議院 予算委員会 第2号 平成9年(1997年)1月30日
^ a b c 第140回国会 参議院 予算委員会 第8号 平成9年(1997年)3月12日
^ 『産経新聞』(1998年4月28日付)「主張」
^ a b 河野談話は見直しが必要だ 池田信夫BLOG
^ 「強制連行資料なし」橋本内閣で既に決定 慰安婦問題
^ a b c d e f “韓国での慰安婦基金、受給拒まれたまま事業終了へ”. 朝日新聞. (2002年2月20日) 2010年3月8日閲覧。
^ 元慰安婦の方々に対する小泉内閣総理大臣の手紙
^ KBS(韓国放送公社)ニュースでのインタビュー [出典無効]
^ a b c d “各国・地域における償い事業の内容-韓国”. アジア女性基金. 2010年3月8日閲覧。
^ 慰安婦「水曜デモ」、8カ国で同時開催 中央日報 2004.03.17
^ “慰安婦問題関連の世界連帯集会、光復節に開催”. 聯合ニュース. (2007年8月6日) 2010年3月8日閲覧。
^ “"사과하라!" 베를린에 울려퍼진 '700회 수요집회'출처 : "사과하라!" 베를린에 울려퍼진 '700회 수요집회' - 오마이뉴스( "謝罪せよ!"ベルリンに響いた'700回要求集会'-オーマイニュース)” (韓国語). オーマイニュース. (2006年3月16日) 2010年3月8日閲覧。
^ “韓国女性家族部関係者、在日婦人会と懇談”. 民団新聞. (2006年12月20日) 2010年3月8日閲覧。
^ “慰安婦問題訴える世界連帯集会、12日ワシントンで”. 聯合ニュース. (2009年8月11日) 2010年3月8日閲覧。
^ “【写真】日本の参議員、水曜集会に”. 中央日報. (2003年2月12日) 2010年3月8日閲覧。
^ 本項「総数」節参照
^ a b 酒井信彦 (1996年8月15日). “日本カトリック教団の『戦争の反省』の欺瞞 (2)”. 月曜評論. 酒井信彦の日本ナショナリズム. 2010年4月24日閲覧。
^ 秦郁彦 1999, p. 266 9章「クマラスワミ旋風」。
^ 日本の戦争責任資料センター『R.クマラスワミ国連報告書』解説/荒井信一。 [要ページ番号]
^ a b 「クマラスワミ報告」解説 【荒井信一】
^ 秦郁彦 1999, p. 280
^ a b 秦郁彦 1999, p. 328
^ [27]「龍谷法学」42巻4号,2010年。
^ 『法学セミナー』1998年11月号
^ カトリック新聞で発表 [いつ?]
^ a b c (朝鮮語)“教科書フォーラムの安秉直、「慰安婦は自発的」妄言で波紋”. デイリー・サプライズ (2006年12月6日). 2008年12月9日閲覧。
^ 支那渡航婦女ノ取扱二関スル件
^ 東亜日報1936年4月4日東亜日報1933年6月30日、東亜日報1933年5月5日、東亜日報1938年12月4日
^ 詳細は#元慰安婦の証言参照
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について」京都学園法学 33/34, 115-186, 2001-03-20。
^ 朝日新聞1999年8月12日「日本の炭坑で「強制労働」、元米兵捕虜が4社に賠償請求」
^ 戸塚悦朗「戦後補償問題に踏み込む米国- カリフォルニア州で戦時奴隷・強制労働補償請求の民事消滅時効延長立法」法学セミナー1999年10月号p73
^ a b 毎日新聞1999年9月15日「<強制労働訴訟>ドイツや日本の戦争犯罪追及の動き」
^ 朝日新聞1999.8.27.
^ a b 産経新聞2007.4.16.「慰安婦決議案「負の結果招く」…日系有力指導者、ナカノ氏反対」
^ 共同通信1999年9月10日「強制労働で集団訴訟へ 元米兵らが日本企業に」
^ 朝日新聞・産経新聞2000年8月23日夕刊
^ a b c d e f g h i j k l 産経新聞 朝刊 国際面 2006年3月18日古森義久「米国での慰安婦訴訟の教訓」。古森義久「アメリカ最高裁は慰安婦の訴えを却下した」古森義久公式ブログ2007年7月25日記事。2013年2月5日閲覧(web魚拓)。
^ 公式サイト
^ [28]
^ 共同通信1999年10/08「強制労働で日本企業を提訴 韓国系米国人が米で」
^ 共同通信1999年10/23「強制労働で損害賠償求める 米国の韓国人男性」
^ a b c 山手治之「第二次大戦時の強制労働に対する米国における対日企業訴訟について(続編)(2)」京都学園法学 38, 28-92, 2002-07-20
^ a b c [29] Byoungwook Park,Comfort Women during WWII:Are U.S.Courts a final Resort for Justice?,アメリカン大学Washington College of Law.2002年1月2日
^ または主権免除法。
^ Senate Concurrent Resolution 158
^ 読売新聞2000.12.17.
^ 産経新聞2001.9.12.
^ a b 朝日新聞2001.9.7.
^ 読売新聞2001.9.10
^ 産経新聞2001.9.11.
^ ワシントン・ポスト。産経新聞2001.10.1.
^ 産経新聞2001.11.21.
^ 朝日新聞2001.9.20.産経新聞9.21.
^ Hwang Geum Joo v. Japan, 172 F. Supp. 2d 52 (D.C.D. 2001). 山手治之・香西茂編集代表『現代国際法における人権と平和の保障』(東信堂、2003年)
^ a b c [30]共同通信2003.1.22.「強制労働の賠償請求は違憲 米連邦高裁 日本企業への訴え退ける」
^ a b 産経新聞2003.1.23.
^ DC巡回区控訴審判決 (Hwang Geum Joo, et al. v. Japan, 332 F.3d 679; 2003 U.S. App. LEXIS 13185) (D.C. Cir., 2003)
^ 毎日新聞2003.10.7.
^ [31]山手治之HP(130)
^ 山手治之HP(154#)
^ アジア女性基金HP内Congressional Research Service Memorandum「Japanese Military's Comfort Women」by Larry Niksch,US Congressional Research Service(米国議会調査部)10 April 2006]。wikisource wiksource(英語)
^ a b マイク・ホンダ参照
^ 2007年の政治参照。
^ a b AFPBBNews2007年3月11日「慰安婦問題の第一人者である吉見教授、安倍首相の発言に苦言 - 東京」
^ 年表参照。
^ ワシントンポスト2007年3月24日web魚拓
^ 時事ニュース」 2007/03/11-10:49
^ ““The U.S. wants to create trouble between Japan, China and Korea”” (英語). アルジャジーラ. (2007年4月7日) 2010年3月8日閲覧。
^ 2013年5月14日 読売新聞
^ 閣議決定
^ 産経ニュース「河野談話見直しを視野安倍首相、有識者会議を検討http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121228/plc12122800060000-n2.htm
^ [http://www.kiyomi.gr.jp/blogs/2013/05/24-943.html 辻本清美オフィシャルサイト:つじもとWEB
^ 報道資料
^ 「組織的強制徴用なし」 慰安婦問題 米議会調査局が報告書(『産経新聞』2007年4月12日)
^ United States House of Representatives House Resolution 121。アメリカ合衆国下院121号決議参照
^ 2007年8月1日社説。“慰安婦決議で新聞「猛反発」 朝日社説だけが「孤立」”. J-CASTニュース. (2007年8月1日) 2010年4月13日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k [32]古森義久コラム「外交弱小国・日本の安全保障を考える」第63回「慰安婦決議、カナダやオランダも 〜やまない日本糾弾」日経BPネット2007年12月4日(全6ページ、カナダALPHAについては特にp3〜p6参照 p3(魚拓p3, p4, p5, p6))。
^ a b c 韓国挺身隊問題対策協議会常任代表ユン・ミヒャン (2007年8月29日). “<民論団論>目をそらすな「慰安婦」問題 米下院決議案採択の意味と課題 国際世論の日本政府指弾続く”. 民団新聞 (在日本大韓民国民団) 2010年2月25日閲覧。
^ “慰安婦決議阻止へ4200万円 日本政府 米ロビー会社に支払う”. 産経新聞. (2009年8月29日) 2010年3月7日閲覧。
^ a b 뉴욕시 출마자에 108만달러 The Korea Times,2011年2月4日web魚拓
^ 公式サイト
^ a b c d e 中西輝政「ホワイト・プロパガンダで対抗しなければ対日一兆ドル訴訟が動き出す」SAPIO2007年5月9日 [要ページ番号]
^ a b c 河添恵子『豹変した中国人がアメリカをボロボロにした』産経新聞出版2011年,pp71-4
^ 櫻井よしこ『異形の大国 中国』新潮文庫2008年 [要ページ番号]
^ 公式サイトミッション(使命)
^ 「Clinton Donor Under a Cloud in Fraud Case」August 30, 2007,New York Times
^ “欧州も「慰安婦」決議 日本政府に公式謝罪要求”. しんぶん赤旗. (2007年12月15日) 2010年3月8日閲覧。
^ [33]
^ “韓国国会が慰安婦問題めぐり決議、日本に謝罪などを要求”. 産経新聞. (2008年10月27日) 2010年3月8日閲覧。
^ [34]
^ Treaty of Peace with Japan Taiwan Documents Project
^ A BRIEF ACCOUNT OF THE KOREAN WAR Korean War Veterans Association
^ #大韓民国軍慰安婦参照
^ なぜ今? 慰安婦問題が浮上する米国を読み解く 国際問題評論家古森義久氏 日経BP社 2007年3月16日
^ 渡部昇一の考える、いわゆる慰安婦問題について ワック・マガジンズ
^ “「慰安婦」政府への意見書、地方議会で可決広がる 「後世に汚点」批判も”. 産経新聞. (2010年7月15日) 2010年7月17日閲覧。
^ 2008年6月25日東京都清瀬市、11月7日北海道札幌市。2009年3月25日福岡県福岡市、6月22日大阪府箕面市、6月23日東京三鷹市、6月24日東京小金井市、6月29日京都京田辺市、9月11日奈良生駒市、9月25日大阪泉南市、10月1日東京国分寺市、12月14日京都長岡京市、千葉船橋市、12月18日東京国立市、12月22日福岡県田川市議会などが採択。[35][36]
^ “【民主党解剖】第4部 新体制の行方 (3) どうなる外国人参政権”. 産経新聞. (2009年6月4日) 2010年3月8日閲覧。
^ “ホンダ米下院議員が元慰安婦女性を訪問”. 中央日報. (2009年8月13日) 2010年3月8日閲覧。
^ “ホンダ米議員「過去史に対する日本の謝罪は不十分」”. 聯合ニュース. (2009年8月13日) 2010年3月8日閲覧。
^ “柳外交通商部長官、訪韓中のホンダ米下院議員と面談”. 聯合ニュース. (2009年8月11日) 2010年3月8日閲覧。
^ a b “JR大阪駅前歩道橋で慰安婦支援団体と保守系住民団体が“衝突””. 産経新聞. (2010年4月7日) 2010年4月16日閲覧。
^ Agreement Between Japan and the Republic of Korea Concerning the Settlement of Problems in Regard to Property and Claims and Economic Cooperation Wikisource
^ a b “徴用被害者の未払い賃金請求は困難、政府が立場表明”. 聯合ニュース. (2009年8月14日) 2010年3月8日閲覧。
^ “Seoul draws fire for snubbing compensation for colonial-era laborers” (英語). 聯合ニュース. (2009年8月14日) 2010年3月8日閲覧。
^ “慰安婦、日本に法的責任 韓国政府が再確認”. 産経新聞. (2010年3月15日) 2010年3月16日閲覧。
^ “「個人請求権は解決済み」日本外務省が立場表明”. 聯合ニュース. (2010年3月18日) 2010年3月21日閲覧。
^ “従軍慰安婦の訴え退ける フィリピン最高裁”. 共同通信 (産経新聞). (2010年5月4日) 2010年5月4日閲覧。
^ a b 韓国憲法裁判所判決全文(日本語)WAM女たちの戦争と平和資料館
^ a b [37]「従軍慰安婦及び原爆被害者に関する違憲決定」国立国会図書館「外国の立法」2011.10月
^ 正論2013年8月号、p59
^ [38]5.本案に関する判断、ウ.被請求人の不作為の基本権侵害の可否(3),p.15.
^ a b [39]西岡力「韓国よ、いい加減にせんか 危険水位を超えた「慰安婦」対日諜略」産経新聞2011.11.11.,月刊正論2011年12月号
^ 2013年5月22日衆議院外務委員会
^ a b c 第2の慰安婦碑、ニューヨーク州に建立 東亜日報 JUNE 18, 2012
^ “「慰安婦問題忘れない」、在米同胞が追慕碑設立推進” (英語). 聯合ニュース. (2009年8月3日) 2010年3月8日閲覧。
^ “Students Plan 'Comfort Women' Memorials in U.S.”. 朝鮮日報. (2009年8月13日) 2010年3月8日閲覧。web魚拓
^ “慰安婦決議案国連に上程を、米下院外交委小委員長”. 聯合ニュース. (2009年9月2日) 2010年3月8日閲覧。
^ a b c p1p2産経新聞2012年6月9日「慰安婦問題、敗北主義に陥るな 外務省「韓国は確信犯的にやっている」」
^ a b c d e f p.1p.2 「韓国系が数の論理でごり押し 米の慰安婦の碑 根拠乏しい「20万人拉致」」産経新聞2012.5.11]、自由民主2510号、平成24年5月29日号、田村重信「米ニュージャージー州パリセイズ・パーク市の慰安婦記念碑問題」2012年5月28日BLOGOS
^ 東郷2012,p143
^ (ブロンズ製、高さ1.2m)ソウルの大使館前に慰安婦像 日本反対、韓国は黙認西日本新聞 2011年12月14日
^ 安倍首相、靖国放火犯引き渡し拒否に「極めて遺憾」 中央日報 2013年01月05日
^ 「戦争と女性の人権博物館|日本軍慰安婦のための名誉と人権のための戦争と女性の人権博物館」と公式サイトで明記されている。
^ [40]公式サイト建設計画。
^ [41]公式サイトより。
^ 戦争と女性の人権博物館より。
^ Korean desecration of USA Korean War Memorial トニー・マラーノ 2012年6月26日[出典無効][要高次出典]
^ a b we petition the obama administration to:Repeal the House of Representatives Resolution 121 to stop aggravating int'l harassment by Korean propaganda & lies! ホワイトハウス 2012年6月21日
^ a b “米の慰安婦決議 在米日本人が廃止請願の署名運動”. 中央日報. (2012年6月27日) 2012年7月2日閲覧。
^ 【なでしこアクション】米国下院慰安婦決議撤廃を民間の手で! 日本文化チャンネル桜 2012/07/02
^ 「強制連行資料なし」橋本内閣で既に決定 慰安婦問題
^ 産経新聞2013.1.17.「日本政府に謝罪要求 慰安婦でNY州決議案「最大規模の人身売買だ」
^ 産経新聞2013.1.30「慰安婦は「人道への罪」 NY上院が決議採択」
^ 従軍慰安婦問題、河野談話で曲解広まる - 読売新聞 2013年5月14日09時08分版
^ 2013年6月19日付しんぶん赤旗。2013年6月25日付東京新聞
^ 『共同研究日本軍慰安婦』大月書店 (1995) 第5章、p142-144
^ 今日の歴史(2月14日) 聯合ニュース 2008/02/14
^ a b c d 『慰安婦と戦場の性』p401
^ a b c d e f g h i j k l m n o 「慰安所と慰安婦の数」慰安婦問題とアジア女性基金デジタル記念館2012年9月22日閲覧
^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p105,p400。
^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p105,p400。
^ 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』p400-401。
^ 秦郁彦 1999, p. 406
^ a b c d e 「女性のためのアジア平和国民基金」(編)『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』 龍溪書舎 1997年3月20日
^ マクドゥーガル報告書では14万5000人とされている。
^ 秦郁彦 1999, p. 410
^ 秦郁彦 1999 [要ページ番号]
^ 『朝鮮総督府統計年報 明治42-昭和15年度』 [要ページ番号]
^ 実質最高寿命60歳とすると、20±5歳の間の女性の人口は、世代平均(30歳)の4/3倍であり、全体の10/60 × 1/2 × 4/3=1/9という計算が可能。総人口2500万人だと約280万人。[42]
^ 秦郁彦 1999, p. 41
^ 秦郁彦 1999, p. 30
^ 秦郁彦 1999, p. 48
^ 秦郁彦 1999, p. 399
^ 毎日新聞社(編)『決定版・昭和史--破局への道』 毎日新聞社 1983年 第11巻P190)1944年8月に勅令で女子挺身勤労令を公布、即日施行
^ 『朝鮮日報』 2005年1月11付
^ <インタビュー>世界に慰安婦問題解決を訴え続ける吉元玉さん 聯合ニュース 2009/08/10
^ パク・ヒョンジョン (2011年12月14日). “20年間 水曜日ごとに日本大使館前 千回泣いたけれど…”. ハンギョレ. 2011年12月17日閲覧。
^ a b 李栄薫教授「国史教科書、日本収奪を膨らませ過ぎ」
^ (『中央日報』2005年4月26日付)
^ 『日帝支配下の韓国現代史』(風濤社 1984年)
^ a b c d “李栄薫、国史教科書、日帝被害誇張されている 慰安婦数十万 - 強制連行650万は虚構、国史学界論争予告("국사 교과서 일제피해 과장됐다""위안부 수십만-강제 연행 650만은 허구", 국사학계 논란 예고)” (韓国語). PRESSIAN (2005年4月26日). 2012年7月23日閲覧。
^ a b c d “ハンコク招待席 ソウル大経済学部李栄薫教授 日帝清算、正確な事実に基づかなければ 社会的通念に挑戦して常識の壁を超えた勇気ある学者 日本軍慰安婦·徴用者は誇張 国民感情に反する主張で波紋(한국 초대석 서울대 경제학부 이영훈 교수"일제 청산, 정확한 사실에 기초해야"사회적 통념에 도전하고 상식의 벽을 넘어선 용기있는 학자"일본군 위안부·징용자 수 과장"국민정서에 反한 주장으로 파문("국사 교과서 일제피해 과장됐다""위안부 수십만-강제 연행 650만은 허구", 국사학계 논란 예고))” (韓国語). ハンコクドットコム (2005年5月19日). 2012年7月23日閲覧。
^ 李2009 [要ページ番号]
^ a b 韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会(編)『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店 1993年 [要ページ番号]
^ citing a 1975 statement by Seijuro Arahune, Liberal Democratic Party member of the Japanese Diet, that 145,000 Korean sex slaves had died during the Second World War
^ 蘇智良『慰安婦研究』上海書店出版社、1999年 [要ページ番号]
^ 国連代表部金永好書記官発表による。『中央日報』2005年4月23日付
^ 朝鮮中央通信社 日帝の罪状録を発表 [43]
^ U.S. lawmaker seeks Japan apology 中央日報 August 14, 2009
^ 『中央日報』2005年4月23日付
^ アメリカの歴史教科書"日本軍、慰安婦の強制動員"" 1日20-30人の相手"の惨状詳しく記録"日王の贈り物として提供..隠すために殺害"(美역사교과서 "일본군, 위안부 강제 동원""하루 20-30명 상대" 참상 상세히 기록"日王 선물로 제공.. 은폐 위해 학살도") 聯合ニュース 2007/03/28(朝鮮語)
^ 古森義久,2009年6月29日産経新聞。
^ . Cynthia Enloe, Does Khaki Become You? The Militarization of Women’s Lives (London: Pluto Press, 1983), pp.33-34
^ Hata2007[44],p13.
^ 『日本文化チャンネル桜』2005年6月15日放送 [出典無効]
^ a b 『たかじんのそこまで言って委員会』2005年4月10日放送 [出典無効]
^ a b 井浦祥二郎 『潜水艦隊』 学習研究社(2001年6月) [要ページ番号]
^ 第040回国会 衆議院 社会労働委員会 第27号 昭和37年(1962年)4月11日
^ a b c d 吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年4月 [要ページ番号]
^ a b c 吉見義明、川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店1997年7月 [要ページ番号]
^ 櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻(サンケイ出版、1983年) pp.40-41
^ 産経新聞 平成25年5月24日朝刊、p6
^ 戦争犠牲者を心に刻む会(編)『アジアの声(第11集)私は「慰安婦」ではない』 東方出版(大阪)1997年8月
^ 韓国挺身隊問題対策協議会『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(明石書店 1993年) [要ページ番号]
^ a b c 米国戦争情報局心理作戦班報告:“UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S.Army Forces”(1944年)。
^ a b 金一勉 『軍隊慰安婦―戦争と人間の記録』(徳間書店 新装改訂版版 1992年2月) [要ページ番号]
^ 李2009,p147
^ a b 秦郁彦 『昭和史の謎を追う 下』文藝春秋社 1999年12月 [要ページ番号]
^ 秦郁彦 1999, p. 270
^ 高安やえ「女のラバウル小唄」(『戦中派の遺言〈続〉』 櫂書房1979年) [要ページ番号]
^ 李2009,p140.
^ 日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録による
^ a b 吉見義明(編)『従軍慰安婦資料集』I大月書店 1992年12月 [要ページ番号]
^ 日本占領下インドネシアにおける慰安婦---オランダ公文書館調査報告 山本まゆみ、ウイリアム・ブラッドリー・ホートン
^ a b 山崎朋子『サンダカン八番娼館』(文藝春秋 1975年1月) [要ページ番号]
^ P138 文玉珠 『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎 1996年) [要ページ番号]
^ p301 西岡力 『闇に挑む!』(徳間文庫 1998年9月) [要ページ番号]
^ 「ナショナリズムのジェンダー」p117
^ 「大東亜戦争陸軍給与令」昭和18年7月28日勅令625号。秦1999,p394
^ 秦1999,p394
^ 2005年基準の企業物価指数664.9で当時の企業物価指数を割って算出。1931年の企業物価指数は0.748で換算倍率は601.18倍。1939年の企業物価指数は1.466で倍率は453.54倍。1942年の企業物価指数は1.912で倍率は347.75倍。日本銀行。過去の貨幣価値を調べる 国会図書館
^ 1939年の換算倍率 (453.54) による。
^ 李2009,p136.
^ 日本の円の価値は、この時期は安定していたが、ブロック経済又は満州事変と前後して急低下して日華事変の頃まで6割のレベルが続き、欧州戦争開始以後さらに低下している。ただし米価は上下変動があり、第二次上海事変からとくに欧州戦争が始まってから大きく上昇が始まる。
「国際金融」第9回 「円の歴史、PPP」 p13
^ a b 秦郁彦 1999, p. 394
^ 吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995年 [要ページ番号]
^ :聯合ニュース(朝鮮語)2010/11/18 연합뉴스 : 바른언론 빠른뉴스(<人々>'慰安所征伐'父親日記寄贈した日本人)[45]
^ 総山孝雄 『南海のあけぼの』叢文社 1983年1月 [要ページ番号]
^ 本項目慰安婦#概要参照
^ 秦郁彦 1999, pp. 366-367
^ 秦郁彦 1999, pp. 367-369
^ 尹明淑 『日本の軍隊慰安婦制度と朝鮮人軍慰安婦』p296-298)※出版社、発行年不明
^ a b c d e f 秦郁彦 1999, p. 368 内務省管理局「昭和19年度内地樺太南洋移入朝鮮人労務者供出割当数調」
^ (「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」の控訴人最終準備書面)。女子挺身隊#朝鮮の挺身隊も参照。
^ 金1976,p17-18
^ 金1976,p18
^ 金1976,p18
^ 秦郁彦 1999, p. 266
^ 西岡力 2007, pp. 48-50
^ 西岡力 2007, p. 45
^ 西岡力 2007, p. 47
^ 西岡力 2007, pp. 47-48
^ 西岡力 2007, p. 50
^ 中央日報2012年11月25日「在米韓国人 デトロイトに慰安婦少女像の建立推進」[46]
^ #韓国における「挺身隊」と「慰安婦」の混同と流言参照
^ 池萬元氏「偽の慰安婦」疑惑を提起、波紋広がる 中央日報 2005.04.14
^ 櫻井よしこ「密約外交の代償」(『文藝春秋』4月号) [要ページ番号]
^ 西岡力 2007, p. 114
^ 1997年2月27日の朝鮮時報(朝鮮総連機関紙)
^ 『朝まで生テレビ!』1997年1月3日放送 [出典無効]
^ a b c 吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』大月書店,1997年,p24
^ 西岡力 2007, p. 128
^ 「アジア女性基金ニュース」8号、1997.3.5.
^ 「歴史論争を総括する」(『論座』 1999年9月号) [要ページ番号]
^ 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言 5』 小学館 2002年9月 [要ページ番号]
^ 呉善花 『「反日韓国」に未来はない』(小学館 2001年9月) [要ページ番号]
^ 『asahicom』2007年3月27日付
^ 西岡力 2007 [要ページ番号]
^ 『共同通信』2007年5月12日付
^ 「慰安婦問題 対日非難は蒸し返し」(Sankeiweb 2007/03/10 06:09)
^ 「フィリピン少年が見たカミカゼ」桜の花出版、2007年 [要ページ番号]
^ [47]日弁連1995年11月16日「従軍慰安婦問題への政府の対応に関する声明」
^ 週刊新潮1996年5月2/9号 [要ページ番号]
^ 秦郁彦 1999, p. 246
^ 私が知る「従軍慰安婦」 湯浅謙(季刊『中帰連』第五号 1998年6月)
^ 「日本軍「慰安婦」問題に関する声明」 日本の戦争責任資料センター 2007年2月23日
^ 藤目1997,p88
^ 藤目1997,p88
^ 藤目1997. [要ページ番号]
^ 秦郁彦 1999, p. 27
^ a b 「人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相」立命館大学人文科学研究所紀要 93, 237-268, 2009,p237-238
^ 『親日派のための弁明2』 扶桑社 2004年11月27日 [要ページ番号]
^ 『産経新聞』2007年5月18日付
^ 倉橋2010 [要ページ番号]
^ 倉橋正直『愛知県立大学文学部論集』第43号「公娼制度について」P18
^ 倉橋正直『歴史評論』540号「近代日本の公娼制度」1995-4
^ 従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク『もっと知りたい「慰安婦」問題ー性と民族の視点からー』金富子・梁澄子著、明石書店、1995年、p26
^ 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p86、櫻井よしこ、金両基、中央公論社
^ a b 『日韓歴史論争-海峡は越えられるか』p95、櫻井よしこ、金両基、中央公論社
^ 山地白雨『悲しき国』(自由討究社)。川村湊『妓生』作品社、p117
^ 柳建寺土左衛門(正木準章)『朝鮮川柳』(川柳建寺社)。川村湊『妓生』p165
^ 川村湊『妓生』p181
^ 『妓生』作品社、p12
^ 『妓生』作品社、p14
^ のち三一書房、三一新書1978年。文庫版は講談社文庫 1984年
^ a b c 加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、p55-6
^ 千田1978,p102-105
^ 千田1978,p103
^ 千田1978,p104-5
^ a b c d e 西岡力「よくわかる慰安婦問題」p77-79
^ 『関東軍』(中公新書 1965年)p176
^ 千田1978,p17,p37-40
^ 千田1978,p37
^ 十五年戦争重要文献シリーズ, 第1集 [要ページ番号]
^ 梓書院2010年。ISBN 4870353717 [要ページ番号]
^ この他、天児都は正論1995年12月号に「従軍慰安婦と私」、1997年7・8月号『現代コリア』に「慰安婦問題の問いかけたもの―私自身の問題として―」、1998年6月に九州大学医学部産婦人科学教室同窓会誌第40号(平成9年度)に「引揚者の中の強姦妊婦及び性病感染者の保護について」を発表している。
^ 1978年の三一新書版の「新版にあたって」p11-12
^ 千田1978,p21
^ 『諸君!』1992年7月号 [要ページ番号]
^ 中川八洋 『歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本』 徳間書店 2002年4月 [要ページ番号]
^ 吉見義明・川田文子『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』大月書店,1997年,p.26-27.
^ 1997年1月28日 「日本の戦争責任資料センター」 上杉聰 「『慰安婦』は商行為かという問いに答えつつ 」
^ 秦郁彦 1999, p. 246
^ 秦1999,p246
^ 秦1999,p246-7,第9章
^ a b c 産経新聞2007年4月13日「慰安婦決議案 報告書に「吉田清治証言」 米下院はこの虚構を根拠に審議」記事
^ 「慰安婦『身の上話』を徹底検証する」(『諸君!』1996年12月号) [要ページ番号]
^ 「歴史論争を総括する」『論座』朝日新聞社 1999年9月号 [要ページ番号]
^ 秦郁彦 1999, p. 177
^ 秦郁彦 1999, p. 275
^ 秦は『諸君』2007年5月号でも旧軍人との証言の突合せなどにより疑問を提起している。 [要ページ番号]
^ 中央日報1993年1月7日
^ a b 西岡力 2007, p. 103
^ 統一日報1993年1月8日
^ 西岡力 2007, pp. 103-104
^ 月刊朝鮮1992年7月号
^ 西岡力 2007, p. 104
^ 『ナショナリズムとジェンダー』青土社,1998,p177.
^ a b c d e 『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』第二章,ワック出版、2005年(原著1996年、クレスト社) [要ページ番号]
^ 証明責任参照
^ 「ハイナンNET」は大学生やフリーターなど、10代から20代の若者が中国海南島戦時性暴力被害裁判の支援を行なっているネットワーク。
^ 石田米子・内田知行『黄土の村の性暴力』 創土社 2004年 [要ページ番号]
^ a b c 『慰安婦問題とは何だったのか』中公新書,2007,p30
^ 西岡力 2007, pp. 93-94
^ 西岡力 2007, p. 96
^ 西岡力 2007, p. 94
^ 西岡力 2007, p. 91
^ a b 西岡力 2007, p. 98
^ #報酬節参照
^ 西岡力 2007, pp. 98-99
^ a b 西岡力 「すべては朝日新聞の捏造から始まった」(『WILL』2007年5月号) [要ページ番号]
^ 西岡力 2007, p. 61
^ 西岡力 2007, p. 90
^ a b c 西岡力 2007, pp. 90-92
^ 西岡力 2007, pp. 100-101
^ a b c 櫻井よしこ「密約外交の代償」(『文藝春秋』1997年4月号) [要ページ番号]
^ a b c 産経新聞、1997年3月9日「『強制連行』証拠なく 直前の聞き取り基に」
^ 刑法第169条
^ 刑事訴訟法317条。
^ 西岡力 2007, p. 145
^ 西岡力 2007, p. 146
^ 1997年3月31日付の『朝日新聞』
^ a b c 秦郁彦 1999, p. 273
^ a b 秦郁彦 1999, pp. 273-274
^ 秦郁彦 1999, p. 274
^ 大師堂経慰『慰安婦強制連行はなかった』展転社1999年 [要ページ番号]
^ a b 『正論』2005年3月号 [要ページ番号]
^ 世界各国にもあった慰安婦・慰安所(『国を憂い、われとわが身を甘やかすの記』 2007/03/09 16:54 )
^ 「日豪安保宣言が中国『慰安婦カード』を無効にする」 浅川晃広(『諸君!』2007年6月号) [要ページ番号]
^ 「民族的快感、沸く韓国 米の慰安婦決議案 ホンダ議員、英雄扱い」(『Sankeiweb』 2007/03/14 03:24)は日本に対する道徳的優位を誇示するために韓国は慰安婦問題を日本の国家的強制によるものとすることに力を注いできていると指摘している。
^ a b c Chunghee Sarah Soh:The Comfort Woman (University of Chicago Press, 2009)。[48] JEFF KINGSTON,Continuing controversy of 'comfort women,May10,2009.(同書ジャパンタイムズ書評)
^ shibboleth
^ 日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会(編)『歴史教科書への疑問』展転社 1997年12月23日、p314
^ 『文藝春秋』1993年3月号 [要ページ番号]
^ KBS(韓国放送公社)ニュースでのインタビュー [出典無効]
^ a b c d e f 臼杵敬子「「基金」受け取り7人を差別した 韓国「市民連帯」の人権感覚を疑う」1997.6.1「ハッキリニュース」NO.55 日本の戦後責任をハッキリさせる会HP内2012年11月2日閲覧。web魚拓
^ 挺身隊問題対策活動便り11号 [要ページ番号]
^ (救う会の西岡力副会長が 2005年1月24日に発表した「朝日新聞にまず問いたいこと」という一文、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』第4巻(小学館 1997年)
^ a b c d 産経新聞2011年5月9日 「「日本から補償金」3万人だました反日団体幹部ら摘発、遺族会長にも容疑」黒田勝弘記事。
^ 西岡力 2007, pp. 52-53
^ 「元慰安婦の損害賠償請求権譲渡を可能に、法改正推進」聯合ニュース2009-01-27
^ 「日韓基本条約は無効」、国民行動を呼び掛ける委員会が発足―韓国Livedoor news2011年8月17日
^ 秦郁彦 1999, p. 149
^ #ドイツ軍慰安婦参照
^ 東郷2012,p143
^ 東郷2012,p143-144
^ 『正論』 2003年3月号 [要ページ番号]
^ 日本経済新聞「従軍慰安婦問題 米国でも強まる「対日不信」」2012年9月12日
^ 『世界』2012年12月号p.138
^ 『世界』2012年12月号 p.141
^ 東郷2012,p138,p139
^ 東郷2012,p138
^ 東郷2012 [要ページ番号]
^ 東郷2012 [要ページ番号]
^ Allen & Unwin.邦訳『性の奴隷 従軍慰安婦』三一書房 1995
^ 秦郁彦 1999, p. 268
^ 日本語訳p287-288
^ a b 秦郁彦 1999, pp. 266-267
^ 秦郁彦 1999, pp. 268-270
^ 前掲
^ a b c 秦郁彦 1999, p. 267
^ 金子兜太「私の履歴書」日本経済新聞1996年7月12日。
^ 日弁連主催のゲイ・マクドゥーガル講演会(1999年6月2日 東京都千代田 弁護士会館)
^ 正論2013年8月号、p59
^ 産経新聞 朝刊 国際面 2006年3月18日
^ a b [49]GMA News,SC dumps demand of WWII Filipino comfort women,May4,2010.
^ [50]従軍慰安婦及び原爆被害者に関する違憲決定
^ “慰安婦問題解決の署名運動、目標を大幅に下回る”. 聯合ニュース. (2010年3月12日) 2010年3月14日閲覧。
^ 日刊スポーツ新聞(일간스포츠신문)サイト。[51]
参考文献[編集]

政府資料
「女性のためのアジア平和国民基金」(編)『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』全5巻、 龍溪書舎 1997年3月20日、(オンライン閲覧(無料))
※以下参考文献、発行年代順.
千田夏光 『従軍慰安婦―"声なき女"八万人の告発』(双葉社1973年)、三一書房 1978年 9月 ISBN 9784380780127
金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』三一書房、1976年1月
吉田清治 『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』 三一書房 1983年1 月 ISBN 4380832317
吉見義明 『従軍慰安婦資料集』 大月書店 1992年12月 ISBN 9784272520251
韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会(編集)、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク(翻訳)『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 明石書店(1993年11月)ISBN 9784750305486
倉橋正直 『従軍慰安婦問題の歴史的研究』 共栄書房 1994年
吉見義明 『従軍慰安婦』 岩波新書 1995年 4月 ISBN 4004303842
吉見義明・林博史他 『共同研究日本軍慰安婦』 大月書店 1995
ジョージ・ヒックス 『性の奴隷 従軍慰安婦』 三一書房 1995
国際法律家委員会著 『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』 明石書店 1995
藤目ゆき『性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』不二出版、1997年3月
吉見義明 ・川田文子 『「従軍慰安婦」をめぐる30のウソと真実』 大月書店 1997年 6月 ISBN 4272520504
アジア女性資料センター編 『「慰安婦」問題Q&A編―「自由主義史観」へ 女たちの反論』 明石書店 1997
Hyun S.Kim,JT Takagi,and Hye-Jung Park,The Woman Outside:Korean Women and the U.S.Militaly [52],1997(2009年改訂).
藤岡信勝 『自虐史観の病理』 文藝春秋1997年8月(文春文庫2000)
大師堂常慰 『慰安婦強制連行はなかった―河野談話の放置は許されない』 展転社 1999年 2月 ISBN 9784886561633
秦郁彦 『慰安婦と戦場の性』 新潮社〈新潮選書〉、1999年6月。ISBN 978-4106005657。
池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態1:日本・台湾・朝鮮編』 緑風出版 2000
池田恵理子他 『慰安婦戦時性暴力の実態2:中国東南アジア太平洋編』 緑風出版 2000
ゲイ・J. マクドゥーガル他著、バウネットジャパン訳『戦時・性暴力をどう裁くか―国連マクドゥーガル報告全訳』凱風社 2000
朱徳蘭 『台湾慰安婦関係資料集』第1巻・第2巻 不二出版 2001
VAWW-NETジャパン他著『裁かれた戦時性暴力―「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」とは何であったか 』白沢社 2001
崔吉城「朝鮮戦争における国連軍の性暴行と売春」『アジア社会文化研究』no.2 page.1-16,2001年、広島大学学術リポジトリ。
尹明淑 『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』 明石書店 2003
阿部晃 『日本人なら知っておきたい「慰安婦問題」のからくり』 夏目書房 2005年5月 ISBN 9784860620394
西岡力 『日韓「歴史問題」の真実 「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」を捏造したのは誰か』 PHP研究所 2005年6月 ISBN 9784569643168
鈴木裕子 『日本軍「慰安婦」関係資料集成』上下 明石書店 2006
西岡力 『よくわかる慰安婦問題』 草思社、2007年6月。ISBN 978-4794216014。
黄文雄 『「従軍慰安婦」問題』 WAC,2007年
浜日出夫2007「歴史と記憶」,長谷川公一、浜日出夫、藤村正之、町村敬志『社会学Sociology:Modernity, Self and Reflexivity』(有斐閣)
Hata Ikuhiko(秦郁彦),NO ORGANIZED OR FORCED RECRUITMENT: MISCONCEPTIONS ABOUT COMFORT WOMEN AND THE JAPANESE MILITARY,2007,Society for the Dissemination of Historical Fact.
梶村太一郎、村岡崇光、糟谷廣一郎 『「慰安婦」強制連行 ~史料:オランダ軍法会議資料、ルポ「私は日本鬼子」の子』週刊金曜 2008
李榮薫『大韓民国の物語』 永島広紀訳 文藝春秋 2009年2月 ISBN 4163703101
Chunghee Sarah Soh,The Comfort Woman,University of Chicago Press(シカゴ大学出版局), 2009年2月
倉橋正直 『従軍慰安婦と公娼制度―従軍慰安婦問題再論 』 共栄書房 2010年8月 ISBN 4763410407
東郷和彦「私たちはどのような日韓関係を残したいのか ─「普遍的人権」問題としての慰安婦」『世界』2012年12月号。
Hughes, Donna; Chon, Katherine; Ellerman, Ellerman. Modern-Day Comfort Women:The U.S. Military, Transnational Crime, and the Trafficking of Women. ロードアイランド大学.