朝鮮戦争における対機雷戦

 本論文は、防衛研究所主任研究官 1等海佐 谷村文雄が平成14年10月24日、韓
国国防部軍史編纂研究所で開催された「日韓軍事史研究会」で発表したものである。
 軍史編纂研究所:ソウルの戦争記念館内にあり、韓国国防部の戦争史の研究編纂を実施
している研究所である。
朝鮮戦争における対機雷戦(日本特別掃海隊の役割)
防衛研究所主任研究官  谷村文雄
はじめに
1950年9月29日、マッカーサー元帥は韓国政府にソウルを返還する還都式終了後の
指揮官会議で、米極東海軍、空軍、第8軍及び第10軍団の各司令官に対し、第8軍
主力を北上させるとともに第10軍団を元山に上陸させ、南と東から平壌の北朝鮮軍
を包囲し、朝鮮戦争を終結に導く作戦構想を示した。米海軍は、上陸作戦用の艦船不
足を理由に、元山上陸作戦に反対し、陸上進撃による元山攻略案を提案した(注
1)。しかし、マッカーサーは、元山上陸作戦の戦略的必要性を強調し、統合参謀本
部の計画承認を得て、「テイルボード作戦」のコード名称で元山上陸作戦を発動し
た。本研究では、元山上陸作戦にともなう対機雷戦の作戦経過を中心に、日本から朝
鮮水域へ派遣された日本特別掃海隊の果たした役割について述べる。
1 第2次大戦後の極東水域の対機雷戦態勢
米海軍太平洋艦隊機雷戦部隊は、戦後の動員解除と軍事予算削減によって、DMS(掃
海駆逐艦)は太平洋巡洋駆逐艦部隊に、AM(鋼製艦隊掃海艇)とAMS(木造掃海
艇)は太平洋艦隊補給部隊に分けて配属された。その結果、機雷戦の戦術的研究の進
歩が止まり、掃海訓練も減少し、対機雷戦即応能力が大幅に低下した。
朝鮮戦争勃発時、極東海軍司令官指揮下の掃海艇は、わずか第31掃海隊のAMS6隻
と第32掃海隊のAM1隻であった。これらの掃海艇は、日本の掃海部隊が実施した
係維及び感応機雷掃海の確認掃海に従事していた。
f朝鮮戦争における対機雷戦
1950年9月4日、黄海の鎮南浦沖で北朝鮮の敷設した機雷が発見されたことによ
り、対機雷戦状況は一変した。9月11日、第7艦隊司令官は全艦艇に対して、北朝鮮
軍が機雷戦活動を開始したことを布告し、東海岸では180m等深線以内の海域に接近
しないこと、見張の強化及び浮流機雷の処分を命じた(注2)。
国連軍司令部が元山上陸作戦の実施を決定すると、対機雷戦の必要性は更に増大し
た。大規模な元山上陸作戦には敵前掃海を必要とし、新しい兵站線を確保のためには
沿岸に沿って莫大な航路啓開が必要となった。これらの対機雷作戦を極東水域にいる
米海軍掃海艇のみで完遂するには、隻数が不足した。しかも沖縄上陸作戦以降、大規
模な敵前掃海は実施されておらず、実機雷の掃海を経験している要員が極端に不足し
ていた。
極東海軍司令官ジョイ中将は、元山上陸作戦の掃海のために、第7統合任務部隊指揮
官ストラブル中将指揮下に第95.6掃海・護衛任務群を編成した。高速輸送艦「ダイア
チェンコ」を旗艦兼掃海母艦として第31、32掃海隊のAM3隻とAMS7隻及び第1掃
海隊のDMS2隻を基幹に編成し、工作艦「ルーズベルト」、4隻のフリゲート艦、そ
して8隻の日本掃海艇を加えた。
2 占領下の日本における掃海活動
1945年9月2日、マッカーサーは、降伏文書の調印と同時に出された連合軍最高司
令官(SCAP)一般命令第1号(陸海軍武装解除降伏等に関する一般命令(注3))で、
全船舶の移動禁止と日本周辺海域の機雷除去を命令した。翌9月3日にはSCAP指令
第2号(注4)で、大本営に掃海艇の準備と機雷の明示及び除去を指令した。
9月18日、SCAP指令第2号で要請された掃海業務に対応するため、海軍省軍務局の
中に掃海部(部長:田村久三海軍大佐)が新設された。さらに10月10日、6地方掃
海部、17掃海支部が設置され、海軍軍人約10,000名、掃海関係船艇348隻の掃海業
務態勢が整備された。(注5)
10月21日、全国の掃海船艇は第52機動部隊指揮官ストラブル少将の指揮監督下に入
り、各地区の米国掃海部隊指揮官が、それぞれの地方掃海部隊に掃海計画を指示し、
米軍敷設の約10,700個の感応機雷と日本軍敷設の約55,000個の防備用係維機雷の掃
海作業が実施された。(注6)
1945年12月1日、海軍省廃止に伴い、掃海部は第2復員省総務局掃海課となり、磁
気水圧機雷掃海のため、4隻の試航船隊が編入された。1946年6月15日、政府組織
改編で復員庁第2復員局総務部掃海課となり、8月までに、係維機雷の掃海がほぼ終
了した。1948年1月、復員庁の掃海、管船業務は運輸省海運総局掃海管船部に移管さ
れた。更に5月1日海上保安庁の創立と同時に掃海課が新設された

朝鮮戦争が始まると、米極東海軍司令部は隠密機雷敷設の可能性がある港湾の日施掃
海(注7)実施を日本側に指示した。1950年7月16日第3掃海部隊指揮官は、6隻
の掃海艇で新編された佐世保掃海隊に対し、日施掃海及び国連軍の艦隊前路掃海を指
令した。また、8月1日、米海軍横須賀基地司令官の指令に基づき第3管区航路啓開
部長は8隻の掃海艇による東京湾口及び銚子沖の日施掃海を実施した。
3 占領軍から朝鮮水域における掃海活動の要請(命令)
1950年10月2日、米極東海軍参謀副長アーレイ・バーク少将は、海上保安庁大久保
長官を極東海軍司令部に呼び、国連軍の元山上陸作戦の必要性と、同海域に高性能ソ
連製感応機雷が敷設されている可能性を説明した。機雷排除に必要な掃海兵力の不足
を理由に、朝鮮水域の掃海を支援するように日本側の協力を要請した。(注8)
大久保は、バークの要請内容は、朝鮮水域にかかわること、現に戦争が実施されてい
る時であり、「海上保安庁長官はこの決定を下すわけには行かない。決定することが
出来る人は首相であろう。」と答えた。大久保は吉田首相に報告して、その指示を仰
ぐこととした。
バークは、大久保の前に吉田を訪ね、元山上陸作戦の実行には日本側の協力が必要で
あることを説明した。(注9)
大久保から報告を受けた吉田は、米軍の軍隊や貨物輸送のための傭船契約が結ばれて
いたが、掃海作業の契約はなかったので、気乗りしなかった。のみならず掃海作業は
戦闘であり、海上保安庁法の第25条には「海上保安庁は非軍事的部隊である。」と明
記されてあった。旧日本海軍軍人に対して、アメリカ軍の支援作戦に彼らの生命を賭
けさせることは、極めて説明困難であった(注10)。問題点を検討した結果、吉田
は講和条約を有利に導くことを優先して考え大久保に対して、バークの提案に従うこ
とを許可した。なお当時は、日本としては講和条約締結前で、国際的にも微妙な立場
にあったので、この日本特別掃海隊の作業は秘密裡におこなうこととなった(注1
1)。
日本政府は、国連軍に協力するという方針決定を、大久保からジョイに通知するとと
もに、GHQから文書で日本政府に指令されたい旨申し入れた。
大久保は、緊急幹部会を招集し、10月2日、「米側の指令により朝鮮海域の掃海を実
施することとなりたるにつき、船艇を至急門司に集結せしめよ(注12)」との準備
命令を全国の航路啓開隊に発令した。
該当する掃海艇は準備でき次第下関に急航し、6日には当初予定の母船1隻、掃海艇
10隻、巡視船4隻(注13)、が下関唐戸桟橋に集合完了した。
艇20隻、母船1隻、巡視船4隻を朝鮮水域で使用するとの指令が出さ
れたことを説明し、引き続き部隊区分及び各指揮官予定者を発表した。
指揮官等から、掃海は何処の海面をやるのか、国連軍の現地指揮官の指揮下に入る場
合の身分、事故が起きたときにどうするのか等について質問が出されたが、田村は作
戦内容の秘匿のためか、目的地や作戦内容について明確な回答を避けたと言われてい
る。(注14)
指揮官会議後の1700、ジョイから運輸大臣に対し、「日本掃海艇の使用に関する、
極東海軍司令部からの指令に応じるため、日本政府は、下関に集結しているこれらの
船舶の使用に必要な命令を発する。参加船舶は日の丸に代えて、国際信号旗“E”の
変形旗(燕尾旗)(注15)を掲げる。本任務に従事している者に2倍の給与を支給す
る(注16)。朝鮮海域における後方支援は米海軍が担当する(注17)」ことが指
令された。
10月6日2000、米第3掃海隊司令のスポフォード大佐から、日本の掃海隊は第7統
合任務部隊指揮官ストラブル中将指揮下に第95.6掃海・護衛任務群のTE95.66として
編入された旨通知された。同時に、第1掃海隊と第2掃海隊に出動命令が下令され
た。これらを受けて、特別掃海隊総指揮官は特別掃海隊の任務編成を定める命令を特
掃第1号(注18)として下令した。
10月7日1200出動命令を受け第1掃海隊はMS20を先頭に、僚艇の見送りを受け仁川
方面に向けて唐戸岸壁を出港した。10日仁川港外の会合点に到着、補給後即刻
TE95.10西海岸哨戒隊の英海軍フリゲート艦「ホワイト・サンド・ベイ」の監督下
に、仁川から海州航路50マイルの掃海を1ヶ月余り実施した。
10月8日0400、第2掃海隊は総指揮官艇MS62を先頭に、対馬東方の会合点に向けて
出港した。8日1600過ぎ、米軍の航洋曳船と会合し、ハイライン(注19)によっ
て通信文を受領した。「目的地は元山である。全船舶は直ちに無線封止、日没後は灯
火管制、ビルヂ排除及び舷外投棄は日没後実施し、昼間は禁止する。本船に続行せ
よ」との内容で、日本へは勿論のこと隊内無線も一切封止された。米航洋曳船に先導
されて2昼夜の航海を経て10月10日早朝に元山沖に到着し、午後国連軍泊地に到着
した。
10月17日0030、第3掃海隊は米駆逐艦ウォーレンスライン嚮導の下に下関を出港し
たが、悪天候と一部舵故障のため反転し、下関に帰港、17日1800再度下関を出港
し、10月20日0900元山に到着した。元山では、第2掃海隊の3隻が帰投した後残留
していたMS62と合同し、PS04,02,08を第3掃海隊に編入して合わせて第3掃海隊と
して元山海域掃海を継続した。

10月17日0700、第4掃海隊は下関を出港し、佐世保に寄港して佐世保米海軍掃海部
隊指揮官の群山掃海命令を受領した。20日1100に群山港に入港、韓国海軍掃海艇の
監督下、米海軍の掃海計画による係維及び磁気掃海を16日間実施し、11月9日に下
関に帰港した。
その後、10月25日、第2次の第2掃海隊が新編され、11月30日まで鎮南浦の掃海を
実施した。また10月29日、第5掃海隊が新編され、11月15日から第2次の第2掃海
隊に編入されて11月30日まで鎮南浦の掃海を実施した。11月15日から第2次の第1
掃海隊が新編され、12月4日まで元山掃海を実施した。掃海部隊の作業地域と行動期
間の細部は別紙第1のとおりである。
4 元山上陸作戦における掃海作業
米掃海部隊が最初に直面した問題は、掃海に必要な情報が不足し、海図だけでは啓開
すべき水路の選定が難しいことであった。別図第2のとおり、当初は麗島(Yo-do)の南
側を上陸海岸に向けて真っ直ぐな水路の掃海を開始した。しかし、ヘリコプターが新
たに5列の機雷敷設線を掃海水路前方に発見したことにより、元山沖の掃海水路は再
検討されることになった。
10月11日は、泊地から麗島の北側の湾口入り口まで約15マイル、幅2,000mの新しい
水路の掃海作業が開始されることになった。(注20)
日本の第2掃海隊は初日の作業として、泊地予定海域の掃海と既掃海水路の水路幅の
拡張を実施した。
10月12日0900から、爆撃による機雷排除が試され,39機の艦載機が500ポンド爆弾を
投下した。信管は20ftの水深で爆発するように調定されてあった。しかし、爆撃によ
る機雷排除の効果は上がらなかった。(注21)
麗島から上陸海岸への水路の爆撃が終了後、湾内への水路の掃海が開始された。先頭
は米第32掃海隊のAM「パイレーツ」、「プレッジ」、「インクレディブル」そして
DMS「エディコット」が続いた。その後を500mの間隔を置いて、日本の掃海艇4隻
が単縦陣約6ktで続いた。(注22)
1112頃、麗島の北側を通過し上陸海岸の方向へ左に進路を変更したとき、10個以上
の機雷係維索が切断された。1209、先頭の「パイレーツ」が薪島(Sin-do)の手前で触
雷爆発し約4分間で沈没した。2番艇の「プレッヂ」はその場に停止して、生存者の
救助のためボートを降ろした。その時、薪島の島影の敵砲台から砲撃が開始された。
これに対して、「プレッヂ」と「エンディコット」は3インチ砲で応戦した。さら
に、麗島からも小火器による射撃が開始された。1220、「プレッヂ」が掃海済海面
で反転しようとして、触雷し沈没した。「インクレディブル」と「エンディコット」
はその場で停止し、薪島、麗島に対する砲撃を継続しつつ、救助作業を続けた。12日
の作業は、2隻が沈没し「エンディコット」がエンジン故障で行動不能となったため
中止された。
10月13日、掃海艇の安全な進入水路を確保するために、哨戒機及びヘリコプターに
よる機雷捜索が実施された。機雷処分は、機銃及び「ダイアチェンコ」の水中爆破処
分隊員によって実施された。
10月14日の掃海作業が再開され、12日と同様に、泊地から上陸海岸に至る水路の啓
開であった。米軍は既にAM3隻を失っているため、AMS(モーター掃海艇)6隻と日本
のMS4隻で慎重に掃海は実施された。
14日から16日までの日米掃海部隊の懸命の掃海により、泊地から湾口の薪島・麗島
に至る水路が3000m幅に掃海され、湾内の水路も啓開された。
17日から、湾内の上陸泊地の掃海が指示され、日本掃海艇は米海軍掃海実施海面南側
の浅海面拡大掃海を命じられた。第2掃海隊指揮官能勢氏の手記(注23) による
と、17日早朝から、米掃海隊とは別行動で、MS03、17、06、14の単縦陣で永興湾
内に進入、麗島に最も近い処から掃海を開始し、あと逐次西方に拡大していった。駆
潜特務艇を改造したMSはもともと外洋に出る漁船型に造られているため船体の割に
喫水が深かった。17日1521、海岸に最も近い位置に在ったMS14が触雷爆発した。被
害は、負傷22名行方不明1名であった。
17日夕刻、田村は、航洋曳船に収容されたMS14号の負傷者を見舞った後、MS62号
士官室に各級指揮官を招集し、緊急対策会議を開いた。
各艇長からは、「このままの状態でMSの掃海を続行すれば触雷するおそれがあるの
で、掃海作業の続行は断る。どうしても掃海を続行するためには、米側からLCVP
(大発)を借りて、浅深度の小掃海を実施し、その後をMSで掃海する」という要望
が強く出された。
10月18日朝、田村は、スポフォードに小掃海の実施について申し入れを行った。ス
ポフォードはこれに理解を示したが、貸与可能なLCVP(大発)は2隻しかないた
め、実施方法を再検討する必要があった。
田村はスポフォードとの協議を中断して、旗艦にスミスを訪問したところ、「今から
小掃海をやるだけの時間的余裕は無い。また貸与するような小舟艇もない。米軍の上
陸予定日は2日後に迫っている。従って当初予定した通りの計画で、速やかに掃海を
続行せよ」と厳命され、日本側からの意見具申は却下された。任務部隊指揮官として
は、上陸作戦遂行の緊急度から、掃海艇の安全を最優先に考えられない情勢にあった
と思われる。

田村からスミスの命令を伝えられた各掃海艇長は、合議の上「触雷必至と思われる掃
海はできないので、掃海艇の安全確保のため小掃海を先行させつつ係維掃海を実施す
るか、又は米掃海艇による係維掃海後の磁気掃海を実施させて欲しい」旨を田村に申
し入れた。
18日の午後、田村は再度スミスを訪問し、各艇長の意向を伝えたところ、スミスは、
「日本の掃海艇3隻は15分以内に出港して内地に帰れ、然らざれば15分以内に掃
海にかかれ」と厳命した。
能勢と各艇長は、小掃海による実施が許されないなら内地に帰投したい旨を田村に申
し入れ、直ちに米側に通知し、15分以内に出港して内地に帰投することとなった。3
隻のMSは急速抜錨し、エンジン分解中のMS17号はMS03号が横抱きにして、元山に
残るMS62及びPS3隻に見送られて下関に向けて出港した。
同じ18日、湾内の掃海が、葛麻半島の上陸海岸まで到達するとともに、磁気機雷が陸
上及び海上で確認された。陸上では機雷用磁気コイルの一部が回収された。海上で
は、磁気掃海中のAMS32「レッドヘッド」の後方で2度爆発が発生した。さらに航行
中の韓国掃海艇YMS516号が感応機雷に触雷し戦死15名、負傷11名の被害を出し
た。
掃海完了を目前にして、感応機雷が敷設されているという証拠が明確になり、更に磁
気掃海を実施する必要が生じた。ストラブルは、ついに元山上陸延期を決定した。
5 第2掃海隊の帰国と日本政府の対応
帰国した能勢と米軍飛行艇で急遽帰国した田村は海上保安庁に元山での事故報告を実
施し、事後対策が検討された。
10月24日、大久保は、現地掃海部隊に、政府の意のあるところを改めて知らせ、指
示された掃海任務に精励するよう長官命令(注24)を発令した。
10月30日、大久保は全国海上保安管区本部長会議を開いて朝鮮の事態を説明し、今
後とも部下を督励して米軍に協力し、海上の安全維持に遺漏無きを期するように訓辞
した。
10月31日、大久保は田村を伴って、首相官邸に岡崎官房長官を訪ね、朝鮮水域にお
ける特別掃海隊の活動に対する政府の意向を確認した。これに対し、岡崎は、吉田の
伝言として、「日本政府としては、国連軍に対し全面的に協力し、これによって講和
条約をわが国に有利に導く考えである。全力を挙げて掃海作業を実施し、米海軍の要
望に副っていただきたい。(注25)」とのメッセージを伝えた。


その後、大久保長官は米極東海軍司令部にジョイを訪ね、「朝鮮派遣掃海隊のうち3
隻が、内地に引返したことにつき遺憾の意を表し、責任者の処分を行うとともに、第
一線の掃海部隊にはすでに指令を発し、内地の管区本部長にも米軍と協力するように
申し渡した」旨伝えたところ、ジョイから「日本の掃海隊が非常によく働いてくれて
いることは、私としても喜んでいる次第で、今度の事故は残念だが、今後かかること
のないように協力願う。特に田村総指揮官がよくやってくれている。田村氏を通じ米
海軍が喜んでいることを掃海隊に伝えてもらいたい」旨の話があった。責任者につい
ては、米極東海軍司令部から能勢及び3名の艇長を航路啓開部隊から排除せよという
強硬な指示が出され、処分ではなく4名は責任をとって退職した。
6 特別掃海隊派遣の果たした役割
(1) 太平洋艦隊中間評価報告に見る役割
太平洋艦隊第1次中間評価報告によると、「連合軍最高司令官の承認を得て参加した
日本掃海艇は作戦の成功に大きく貢献した(注26)」「1950年9月以降の米掃海
艇の再就役と、日本掃海艇の利用によって、不利な状況から北朝鮮の機雷原と戦うこ
とを可能にするまでにし、11月には受容可能な程度まで機雷戦能力を改善できた(注
27)」と記述されていることから、特別掃海隊の派遣は掃海兵力が極端に不足した
時期に国連軍の苦境を救う上に大きな役割を果たしたものと考える。
日本のMSは、米軍のAM、AMSに比べると速力は遅く、通電電力量は少なく、掃海能
力は数分の一しかなかった。中間評価報告では、「元山、鎮南浦、海州並びに群山で
日本掃海艇は係維及び磁気機雷掃海に従事した。掃海隊員の技量は優良(Good)であ
る。掃海艇の小馬力を考慮すると掃海作業は良好(Satisfactory)である」と評価してい
る。
(2) 特別掃海隊の役割認識
米陸軍の公刊戦史によると、マッカーサーは、これらの掃海艇の使用は、雇用契約に
よるもので、戦闘目的ではなく人道的目的で運用されたと国防省に報告したとなって
いる。(注28)
極東海軍司令官の要請による掃海作業とはいいながら、国連軍(米軍、英軍及び韓国
軍)では、日本特別掃海隊を国連軍の臨時雇用と理解していたと考えられる。一方特
別掃海隊の艇長等は日本国政府の命令による公務員として朝鮮水域で行動した。
第2次の第2掃海隊の石野指揮官は、鎮南浦掃海を次のとおり回想している。「韓国
掃海艇とはあまり接触がなく、直接話したのはこの時が初めてであった。舷側で年輩
の韓国兵士から『戦前の日本に対して憎悪感を持っている人もおります。しかし私の

船では、大部分の人が、韓国の危急の際、協力してくれているあなた方に感謝してい
ます。こういうことを、一般の韓国人は知らないのです。韓国は今大変苦しい状況に
あるので、他を顧みる余裕がないのです。悪く思わないで下さい』と話しかけられ
た。(注29)」特別掃海隊員と、両国の政府、国民は心が通じていなかったが、戦
線で同様の任務に従事している者同士は、互いに理解していたと推察される。
(3) 対日講和条約に果たした役割
1950年9月14日は、トルーマン大統領の対日講和に関する予備的討議開始の声明が
出され、米国政府、首相官邸及び外務省では日米交渉に向けて対日講和条約草案が検
討される重要な時期であった。11月1日には「対日講和7原則」が出され、基本的に
「寛大な平和」の方針に貫かれたものであった(注30)。バークは大久保に「日本
の海上保安庁掃海隊が朝鮮掃海で国連軍を援けたことは、国際的にきわめて有意義で
あった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の
平和条約締結の気運を、ぐっと早める効果をもたらしたと思う。(注31)」と述べ
た。吉田が望んだ国連軍に全面協力して講和条約を有利に導くという役割は果たした
と考えられる。
おわりに
朝鮮戦争においては、北朝鮮側に有力な海軍がなかったことから、朝鮮水域における
海上優勢は全期間を通じて国連軍側が確保していた。
しかし、ソ連から供給され、北朝鮮の前時代的手段で敷設された旧式係維機雷と一部
の感応機雷は、沿岸に接近した多くの国連軍艦艇に被害を与え、元山上陸作戦を5日
間延期させ、多くの海上交通線を遮断した。
ジョイは、元山上陸作戦について、「元山上陸作戦の主たる教訓は、機雷戦などのよ
うな、いわゆる海軍諸任務の中でも補助的な部門が将来、無視されたり、軽視された
りしてはならない、ということだった。元山の戦闘はまた、敵の警戒部隊によって機
雷をうまく使用されると、われわれは行動の自由を奪われるということを、教えてく
れている。(注32)」としている。しかし、その後も米海軍における機雷戦部隊の
優先度は低く、1968年から71年にかけて急激に削減され、80年代までに極東水域
の米海軍掃海艇は3隻にまで減少した。
攻撃或いは防御いずれも、機雷の戦術、戦略的活用を図る作戦は絶えない。当然そこ
では将来の機雷戦に必要な装備及び作戦上の研究が継続されなければならない。軍事
史上、朝鮮戦争における本作戦事例に代表されるように、ともすれば主役の陰に隠
れ、終戦後にもその価値を再評価されることがなかった史実を確実に遺していくこと
自体が、戦争指導上貴重な教訓を導くものと信ずる。

朝鮮戦争に於ける日本の掃海活動は、国連軍の作戦監督下で行われた。帝国陸海軍が
消滅した後の日本掃海部隊は、当然ながら国軍でも海軍でもない。海上保安庁は存在
したが、戦闘作戦任務に従事することは、法律を逸脱することであった。
注1 W.Karig,M.W.Cagle & F.A.Manson(吉原矩訳)「朝鮮戦争における米海軍の
戦闘記録(後巻)」(陸上自衛隊幹部学校1962年)33頁。
原本”BATTLE REPORT,THE WAR IN KOREA”Newyork 1952.
注2 前掲「朝鮮戦争における米海軍の作戦―統合作戦―(前巻)」210頁。
注3 連合国最高司令官司令部一般命令第1号(1945.9.2)艦船、機雷関係抜粋「一切の
海軍艦艇及び商船は連合国最高司令官の指示がある迄これを毀損することなく保全し
且つ移動を企画しないものとする。一切の日本国の機雷、機雷原その他の陸上、海上
空中の行動に対する障害物は何れの位置にあるを問わず連合国最高司令官の指示に従
いこれを除去すること。」
注4 連合国最高司令官司令部指令第2号(1945.9.3)機雷関係抜粋「一切の機雷、機雷
原及び指令の関する地域の何処にあるを問わず陸上、海上および空中における行動の
障害物を明瞭に表示する措置を直ちに執るべし。日本帝国大本営は一切の掃海艇が所
定の武装解除の措置を実行し、所要の燃料を補給し、掃海任務に利用し得る如く保存
すべし。日本国および朝鮮水域における水中機雷は連合国最高司令官の指定海軍代表
者により指示せらるる所に従い除去せらるべし。」
注5 海上幕僚監部防衛部「航路啓開史」(海上幕僚監部1961年)4頁。
注6 同上8頁別図第1。
注7 機雷敷設が予想される重要水路等で、毎日定常的に実施する掃海。
注8 J.E.Auer(妹尾作太男訳)「よみがえる日本海軍(上)」(時事通信社1972年)
120頁。
注9 大久保武雄「霧笛なりやまず」(海洋問題研究会1984年)321頁。
注10 前掲「よみがえる日本海軍(上)」121頁。
注11 大久保武雄「海鳴りの日々」(海洋問題研究会1978年)209頁。


注12 同上209頁。
注13 参加した船艇の概要
船 種 船 艇 船 型 船体排水量 記   事
母 船 MS62 飛行救難艇

鋼船   3
00t 300t飛行救難艇
掃海艇
MS18~
30
哨戒特務艇

木造船 2
50t 戦時急造木造老朽艇
MS1~1
7、57 駆潜特務艇

木造船 2
50t 戦時急造木造老朽艇
巡視艇 PS1~5

注14 能勢省吾「朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊」(防衛研究所史料室蔵
1978年)24~27頁。
注15 占領下の日本船舶が領海外を航行する時、日本国旗の掲揚は禁止され、国際信
号旗“E”旗の燕尾旗の掲揚が連合国最高司令部から指示されていた。
注16 前掲「よみがえる日本海軍(上)」132頁。
注17 Com Nav Fe 1tr ser5474 of 6 Oct,1950
注18 特掃第1号(昭和25年10月6日)「特別掃海隊の任務編成」
1 米海軍第7艦隊長官指揮下の95.66部隊として朝鮮海域の掃海を実施する。
2 部隊編成(船艇及び行動は、実績を記載した。)
総指揮官 田村事務官
掃 海 

隊 指 揮 

船    艇 行  動
母 船
(0番
隊)
総指揮官直率 MS62 10月8日出港 東海岸(元
山)











第1掃海

(1番
隊)
山上事務官
MS20,02,04,0

PS03
10月7日出港 仁川、海州
第2掃海

(2番
隊)
能勢事務官
MS03,06,14,1

PS02,04,08
10月8日出港 東海岸(元
山)
第3掃海

(3番
隊)
石飛事務官
MS24
MS01,05,16,1

10月17日出港 東海岸(元
山)
第4掃海

(4番
隊)
荻原事務官
MS25
MS10~12,22,3
0,57
10月17日出港 群山
10月25日以降の追加編成
編成月

掃 海 

隊 指 揮
 官 船    艇 行  動
10.
25
第2掃海

(第2
次)
石野事務官
MS62
MS09,13,1
5,23
11月3日出港 鎮南浦
10.
29
第5掃海

大賀事務官
PS56
MS03,06,0
8,21
11月7日出港 鎮南浦、海州
11.
15
第1掃海

(第2
次)
花田事務官
PS48
MS02,04,07
11月20日出港 元山
注19 洋上移送、洋上で艦船同士が航行しながら、物品、書類等をロープによって受

け渡しすること。
注20 前掲「朝鮮戦争における米海軍の作戦―統合作戦―(前巻)」220頁。
注21 同上223頁。
注22 A.J.Field(妹尾作太男訳)「米海軍作戦史-朝鮮戦争-(後巻)」(防衛研修所1979
年) 21頁。原本J.A.Field,Jr.”Histiry of United States Naval Operations,KOREA”
Washington 1962
注23 能勢省吾著「朝鮮戦争に出動した日本特別掃海隊」(防衛研究所史料室蔵
1978年)
注24 前掲「海鳴りの日々」229~231頁。
注25 同上231頁。
注26 同上1―3頁。
注27 米海軍太平洋艦隊(妹尾作太男訳)「朝鮮戦争における米国太平洋艦隊の作戦
(朝鮮戦争の主要戦訓)-太平洋艦隊中間評価報告-」(防衛研修所1979年)47頁。
注28 J.F.Schnabel”UNITED STATES ARMY IN THE KOREAN WAR, POLICY AND
DIRECTION: THE FIRST YEAR” Washington 1972-CMH Pub 20-1-1 Chapter X p200-
210,
http://www.army.mil/CMH-pg/books/pd-c-11.htm
注29 前掲「海鳴りの日々」243~244頁。
注30 大嶽秀夫「戦後日本防衛問題資料集第二巻」(三一書房1992年)10頁。
注31 前掲「海鳴りの日々」271頁。
注32 前掲「よみがえる日本海軍(上)」133頁。